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『ブラックボランティア』著:本間龍

招致にあたってはアフリカ諸国の票を金で買い、1業界1企業というスポンサーの原則を崩して大金を集める割に、真夏炎天下に人をタダで使ってやろうとする等々、日本の悪いところを集めた蠱毒のようなイベント、2020年の東京オリンピックについて告発した本。ブラックボランティアというタイトルから分かるように、特にボランティア募集のメチャクチャさを中心に書かれている。

著者の主張は要するに

「金儲けのための商業イベントであるオリンピックのために働いてもらうのであれば、相応の対価を払え」

である。

文体としては同じことが繰り返される感じで、文章として余り巧みだとは思わないが、東京オリンピックがいかにメチャクチャなことを国家的にやろうとしているかはよく分かる。決定権を持つ層の見込みの甘さやマネジメント能力の欠如、そもそもの計画の無謀さを下々の者に尻ぬぐいさせるという、70年前の第二次世界大戦でよく見たような日本の「お家芸」を今回も着々と推し進めているのは付き合わされる下々の側からすると全く以て勘弁していただきたいもんである。

正直、このオリンピックっておじいちゃん達のカーゴカルト、あるいはおまじないでしょ?「あの輝かしき高度経済成長期よ再び」とでも考えているんでしょ?

『貨幣の思想史 お金について考えた人々』著:内山節

いわゆる古典経済学とか経済哲学に取り組んできた経済学者の人々の思想を紹介しながら、「貨幣」というものが主に西洋においていかに捉えられてきたのかを紹介する本。ロック、アダム・スミス、ケインズ、マルクス等非常にメジャーな学者が多数登場しますが、その代表作とされている主要著作には余り触れていないことの方が多いような気がします。

最後まで読んでよく分かったのですが、本書は序文→12章→1章から12章→エピローグと読むのが良いように思いました。本書のエッセンスは12章に詰まっており、とりあえず著者の問題意識を12章で概観しておいて、そこで引用、紹介されている個別の学者、思想家の解説を個別にさらっていくのが良いのではないかと。

個人的に経済学についてはよく知らないのですが、本書に紹介されている人々の考えたことの系譜をたどっていく限り、経済学というのは、人間の日々の営み(経済)についても、「神様が作った理想的な秩序があるはずである」といういかにも欧州キリスト教的な、宗教的情熱に強い影響を受けてものを考えてきたようでした。そして、どうもそのやり方では上手くいかないらしい、ということに気づくのが、少なくとも経済学における「貨幣」の思想史だったのだなという感じがしました。

少なくとも現代人のほとんどは、自分の人生という一次資源のうちのいくらかを労働として売って二次資源である貨幣に変換することで生計を立てているわけです。したがって働き方・生き方を考える上で、労働の1つの大目的である「貨幣」がどのようなものであるのかを理解するために、本書は有力な補助具を与えてくれるように思いました。学生の時に読むよりは労働者として経済的に自立してからの方が、より実感を伴って読めるのではないかと思います。

『友だち幻想 人と人の<つながり>を考える』 著:菅野仁

一言で言うならば、日本社会や学校社会における「友だち」に代表される、同質性に基づく人間関係に関する思い込みをほどいて、個人の自立や自由を前提とした人間関係を構築するにはどうしていったら良いのかについて書いている一冊。人間関係についていくつか言葉を定義して、それを使って曖昧模糊とした人間関係に手で触れるような形を与え、解きほぐしていきます。学問的な言葉を使いつつも表現はわかりやすく、かといって内容的には大人の読書に堪える物であると思います。

主張されている内容としては、鴻上尚史さんの『「空気」と「世間」』とか、「孤独と不安のレッスン」に近いものなのかなと思いました。ですので、おすすめしたいのは日常の人間関係に息苦しさを感じている人。本当はみんなこんな感じで、お互いに自由に、さりとて尊重しあうような人間関係の中に生きられたら良いんですけどねぇ。

 

  

 

『UNIX考古学 Truth of the Legend』 著:藤田 昭人

「ギリシアは哲学を遺し、ローマは法を遺した」なんて言葉があり、ギリシア哲学やローマ法とそれらから派生した様々な知の体系は我々の社会を支える重要な礎として機能しているわけですが、本書に語られているUNIX系のOS(ここではベル研究所製のオリジナルのUNIXから派生して、様々な人によって改良され、時には一から作り直されながら発展したその類似・後継OS達を含めます)も、前掲の2つに比べて歴史は浅いながらスーパーコンピュータからスマートフォン、はたまた組み込みのマイコンまで、現代社会の特徴である情報ネットワークのありとあらゆる場所で使われており、現代社会の在り方を支える重要な要石の1つといえるでしょう。というわけで、本書はそんなUNIXがどこでどのように、誰によって生み出され、発展し、今の形になってきたのかを豊富な写真と引用を用いてひもといた歴史書です。

本書では1960年代後半くらいにアメリカAT&Tのベル研究所で始まったUNIX開発、UCBerkleyのCSRG(Computer System Research Group)が行ったBSD UNIXとARPANET、TCP/IPに関するあれこれを紹介し、商用化、クローズドソース化されて多数の派生商用UNIXが生まれ、OSの標準仕様の決定に関して各種UNIXベンダーが争っている1980年代後半にMicrosoft WindowsがコンシューマPC市場をかっさらうところで本書の主部は終わります。おまけでBSD UNIXを完全オープンソース化するというUCB CSRG最後の大仕事も語られます。Free Software運動のRechard Stallmanはちょっと出てくるくらいで、Linus TovaldsのLinuxはフルスクラッチのUNIXライクOSなので(その前身のMINIXは出てきますが)、ほぼ言及はなし。その辺はSteven Levyの『ハッカーズ』を読めばいいのでしょうかね(恥ずかしながら未読)?

最初に「現代社会の在り方を支える重要な要石の1つ」なんて書いたりしましたが、個人的には案外的外れではないのではないかと思っており、その理由としては

  1. 1. 世の中で使われているコンシューマ向けコンピュータの多くがUNIX系OS(Android、iOS、MacOS、Linuxは明確にUNIX系、WindowsもNT系はPOSIX準拠で、Windows 10ではUNIXシェルが標準付属)
  2. 2. インターネットを構成する重要技術は、最初UNIX系OSに実装されて広がり、使われた(TCP/IP×BSD、WWW×NEXTSTEP)

があります。まぁ、もしかしたら別のなにかが作られ、使われたのかもしれませんが……。とはいえ、現在に至る歴史の中で、そんなここ50年くらいの世界の「変革」が、ごく少数の人間によって始まったというのはまるでフィクションのようですが、本書によればどうやらそういうことのようです。語り口は淡々としていますが、中身は「コードギアス 反逆のルルーシュ」シリーズのような「世の中が変わっていく過程」のノンフィクション版のようなものな訳で、まぁ何というか個人的には非常に「滾り」ます。

個人的には本書はコンピュータやUNIX系OSの勉強に非常に有益だと考えています。というのも、人間ものを覚えるのには一つの物事に対して複数の記憶の経路を作るのが有益で、例えばUNIXコマンド一つとっても、歴史や設計思想を知れば覚えも良くなると思うのです。そういう意味で『UNIXという考え方』や本書をUNIXコマンドの解説書と一緒に読むのは勉強法としていいのではないでしょうか?最初は意味がないように見えるかもしれませんが、案外記憶の定着がいいかもしれません。

仕事でUNIX系OSを使う人はもちろん、コンピュータやインターネットを使う人ならば誰にとっても本書は有益だと思います。今、目の前に当たり前にある世界がどのようにして作られてきたかを知れば、目の前の景色がちょっと変わって見えてくるかもしれません。

『誰がアパレルを殺すのか』著:杉原淳一、染原睦美

地方で百貨店が多数閉店したり、どこの服屋に行っても同じようなものしか売ってないような気がしたり、そういった「最近なんか元気がない」アパレル業界の現状分析と、業界の定石にとらわれない新しいビジネスの動きについて書いている本。

戦後日本の「衣」にまつわる慣習から掘り起こして現状に至っていることを丁寧に書いているため、大変わかりやすい。業界の分業体制にとらわれて全員で沈んでいく状況や、粗製濫造の自転車操業、働く人、特に若い人の使い捨てをやったせいで敬遠されつつあるあたり、日本のSI業界や出版業界(高給取りでクリエイティブなので人気なのかもしれませんが)等、思い当たる業界は多数あり、アパレル業界がそれらに先んじて焼け野原になったんだなぁというのが、全くアパレルを知らない人間にも理解できます。

シェアリングサービスやフリマアプリといった新しい(2018年現在だと当たり前に使われているものになりつつあるように思いますが)も紹介されており、そっちは書きぶりもあるのでしょうが、なんとなく元気が出る気がします。

苦境も、焼け野原に芽吹いた芽も、2010年代半ばから後半にかけてのアパレル業界の状況について基礎知識をつけるのに非常に好適な一冊だと思います。

『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』著:井上寿一

なんだか最近第二次世界大戦の本ばかり読んでいる。なんとなく世の中にきな臭いものを感じるのかなんなのか。本書はタイトルの通り、「戦争調査会」という終戦直後に日本政府関係者自身によって日中・太平洋戦争の開戦と敗戦理由を調査した委員会の調査報告書について解説を加えるという体裁の本である。

「一億総懺悔」という言葉の元に思考停止するのではなく、当時の日本人の手で、可能な限り客観的に負けた戦争を多面的に分析しようとしていたのだというのは、教科書レベルの近代史知識しかなかった自分にとっては新鮮だった。GHQによって戦争調査会のプロジェクトは未完のままに終わってしまったという史実は実に残念である。

結局なんであんな勝ち目のない戦争を始めたのか、どうして良いところで辞められなかったのかということに、「これだ」という単独でスッキリした理由なんてないのだろう、という「おわりに」に述べられていることが、本書の一番の収穫であったように思う。というわけなので、これからも折に触れて色々な本を読んで勉強したいものである。

『スクールカーストの正体 キレイゴト抜きのいじめ対応』著:堀裕嗣

「スクールカースト」という単語を知っているでしょうか?主に中等教育の学級、学校において、学生達が暗黙的に、お互いに格付けし合った結果として生じる階級構造のことです。米国だと大抵アメフト選手のジョックス、チアリーダーやってるクイーンビーを頂点に、下層にギーク(技術オタク)やナード(アニメ・マンガオタク)が位置する的なアレです。

本書は、このスクールカーストについて非常に的確な分析と、そこから生じる現代の「いじめ」の対策をいかに取るべきか、という指針について書いたものです。筆者は中学校教師を長く務めて、著述活動も結構やっておられる方のよう。筆者によるスクールカースト分析の解説としては、非常に良質な解説記事があるので、そっちをご覧ください。

現実を抽象化して類型化するという作業は、学問において基本的な作業です。自然科学の場合は再現性が良いことが多く、工学に応用されて製品として使われる場合があります。人間が絡むととたんに再現性が悪くなるわけですが、そういった領域においても、抽象化された理論を学び、物事の道理をわきまえれば、現場での微調整によって問題の解決が非常に容易になるということがあるのだと思います。(とはいえ、現場での応用力、そもそもの問題認識力、そういった個人の応用力にこの手の理論の有効性が大きく依存する点が、多くのビジネスノウハウ本がビジネスマンの「オナニー」で終わってしまう理由の1つでしょう。もちろん理論がプアノウハウであるということもあり得ます。)

本書は恐らく現場で中等教育現場の悲喜こもごもを定点観測して、試行錯誤した結果であり、豊富な事例に裏付けられた本書は人間が絡む領域において抽象化された理論を学ぶことの好例と言えると思います。

もちろん先生にも、子供がいる親にも、はたまた学生時分を思い出して自分が何タイプだったのかを想像するのにも、いろいろなタイプの人がいろいろな読み方ができる本だと思います。

スクールカーストという単語にピンとこない人はライトノベルなどどうでしょう。『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』というシリーズはスクールカーストを扱った作品の白眉ですので、副読本としてぜひ。

  

『ご冗談でしょうファインマンさん』著:リチャード・P・ファインマン 訳:大貫昌子

ノーベル賞を受賞した物理学者リチャード・ファインマン先生の逸話集。本人が書いたというよりは、本人がパーティーの席なんかでおもしろおかしく語るエピソードを集めたものを他人が口述筆記?したもののようである。方々で名著と言われるが、確かにとても面白かった。

とにかく逸話から受ける印象は、「とびきり頭がよくて、人生を楽しんでいる、スケベなオッサン」という感じ。一つのことを突き詰めた結果、そこから得られるある種の自信や確信が他の様々なことににじみ出ている感じ。これくらい人生を楽しめたなら、さぞ素晴らしいだろうなと思わされる。変にえらぶったりせず、かといって官僚主義におもねることもなく、ただひたすらに自分のペースを守るのは実にうらやましいというか、なんというか。本書を読めば絵を描いてみたくなるし、楽器を練習してみたくなるし、ストリップバーに出かけてみたくなること請け合い。

この本ではそういう印象なのだが、物理学者としては、「経路積分」という独特の方法で量子力学にアプローチして、最初は異端視されたりしたが、自分で道を切り開いて今では様々な分野に応用されていたりする。そんな学者としてのエピソードが解説で補強されていたりして、本文も面白いのだけれど、本全体としてもファインマン先生の人となり、魅力を存分に伝える一冊になっていると思われる。

物理をちょっとかじったこともある人もない人も、とにかく「とびきり頭がよくて、人生を楽しんでいる、スケベなオッサン」の自然体のあり方が、なんとなく心を軽くしてくれるかもしれない一冊である。特に現代の日本においては、たとえ学者であったとしてもこんな風に生きるのは至難の業だとは思うが……。

 

『性表現規制の文化史』著:白田秀彰

我らが白田先生の新著です。タイトルの通り、性表現規制の歴史について書いている本です。現代の日本においては、マンガ・アニメ・ライトノベルの性的な表現に対して物申し、法的な規制をかけようとする動きが定期的に起きて、そのたびに表現者やオタクの人たちから批判をされると言う現象が起こるわけですが、本書は「なぜ」そのような現象が起きるのかについて、歴史的な研究の成果が書かれています。

本書の構成は大きく3つです。最初に、表現を整理します。性的な表現、砕けた言い方だとエッチな表現を「猥褻」表現なんて気軽に呼んだりしますが、「猥褻」というのは法的には特別な意味を持つのでそちらを使わず、「性表現」「性関連表現」と呼びましょうというのが要点です。次に、西洋における性、性的な表現に対する考え方がどのように変化してきたのかを明らかにします。最後に、日本において、性、性的な表現に対する考え方がどのように変化してきたのかを明らかにします。赤松啓介の『夜這いの民俗学、夜這いの性愛論』を読むと、現代のそれは西洋ベースであり、昔の日本の性的なものに対する考え方が現代のそれと大きく異なっていたということが分かりますから、西洋について歴史を研究すれば日本にも応用が利くというわけですね。

本書の内容を解釈してかみ砕いて書き下しますと、

  • 元々多くの人間の社会で、次世代を生み出すものである性は忌避すべき物ではなく、規範も幻覚ではありませんでした。例外的に、財産が父系継承される社会の支配者層・富裕層においては、特に跡継ぎを産むまで女性が性的に貞淑であることが、財産の継承に関する争いを避けるうえで重要な考え方であった(当主の胤で孕むまで処女ならば、生まれてくる子は確実に当主の血を引いているというわけ)。
  • また、西洋社会ではキリスト教やユダヤ教の教団が、性と近しい「結婚」をコントロールすることで人々を支配しようとしました。これは、統一教会等の「集団結婚式」のような風習を持つカルト宗教でも使われている手法ですね。
  • で、この支配者層、富裕層特有の習慣は社会の発展と宗教の衰退に伴って、庶民階層にも広がり、特に新興富裕層は上流階級への一体化のためにより強固に性に対して厳格なスタンスをとりいれて行きました。
  • そして、この「道徳的にきちんとしている→社会階層が高い」という関連づけを利用したのが女性の権利拡張運動で、主にアメリカで、性表現、性関連表現を法的に規制しようという動きがありました(禁酒法を思い浮かべると理解がしやすいのではないでしょうか?)。
  • 本書ではアメリカにおける性表現規制の歴史が述べられていますが、社会科学的な研究の結果、成人に対して、性表現による影響といったものは確認されていないようです。その研究の結果を反映してか、自由主義、民主主義の国において性表現は概ね法的に禁止されてはいません(カナダやオーストラリアは年少者に見えるマンガ等の性表現に大変うるさいですが)。
  • 「性表現は成年に影響がない」という研究結果が出てしまったので、性表現規制の最前線は、判断力に劣るとされ法的な主体ではない未成年に対して性表現を見せて良いかどうか、というところになりました。日本においても「青少年健全育成条例」のような形で「青少年保護」を口実に性表現を規制する法制度が作られていますよね。

というわけで、往々にして性的な表現に対する個人的な「お気持ち」が先走り、水掛け論になりがちな議論に対して、学術的な根拠を投げ込む一石となる一冊だと思います。えっちなものが好きなあなたも、えっちなものが嫌いで嫌いでこの世からなくなって欲しいと思っているあなたも、えっちな本を読む時間を、ネット上でケンカする時間を、一部本書に割いてはいかが?

 

『勉強の哲学 来たるべきバカのために』 著:千葉雅也

「雑草という草はない」と昭和天皇はおっしゃったそうである。私自身あれこれ調べ物をしたり、やってみたりするのが趣味の1つだが、確かにいろいろとやってみて、そのとき体が感じる感覚を観察してみたり、新しく取り入れた知識とこれまで持っていた知識が関連づけられる瞬間、新しい知識がモノの見え方を変えるというのはたまらない快感である。前述の昭和の陛下ではないが、「雑草」の名前を覚えれば、草むらの解像度が上がるのである。そしてそれは楽しいのである。

というようなことが書いてあるが、実際のところはもう少し人格の深いところを少し作り替えるような、そんな勉強の方法論(本書でいうところのラディカル・ラーニング)について書かれている本。帯の煽り文句によると、「東大・京大でいま1番読まれている本」だそうである。

個人的には良い本だと思った。『論理哲学論考』を読もうとして挫折したウィトゲンシュタインの考え方が入っているなぁと思ったり、場のノリや空気から自由になるために勉強するというのは鴻上尚二さんの『空気と世間』みたいだなぁと思ったり。僕自身自前で持っていた知識に結びつけて読めて、自分の勉強に対するとらえ方に近いところがあったのでスッと読めた。

哲学の先生の著作らしく、概念を指し示す言葉の独特の使い方をいちいち定義してくれるのが親切に感じた。おそらく本書の中で言われている「言語の他者性」の実演をここでやっているんだなと個人的には理解している。

最後の「結論」の部分が大変良くできていて、本書の内容を適切に要約しているのと同時に、本文を通読してから読むと、自分が本書の内容を理解しているのかどうかをテストする章にもなっていると思う。

勉強の効用、哲学の考え方に基づいた意義づけ、具体的なやり方の一例まで示してくれる一冊。ついでに本書を読んでそこで言っていることを理解するプロセス自体が、本書が伝えようとしている方法論の入り口になっているお得な一冊である。