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『歴史とはなにか』著:岡田英弘

どうやら異端らしい歴史家の一冊。人類史に「歴史」と呼ばれるものは2種類しか存在したことがなく、地中海世界の歴史と中国の歴史ということだそうである。地中海世界の歴史はヘロドトスのそれであって、一定のエリア(昔はヨーロッパ)における国家の興亡を書いたもので、現在我々が学校で教えられる歴史はこっちの書き方である。中国の歴史は、司馬遷が書き始めた皇帝の「正統」の概念を表すものであって、フォーマットが強固に決まっていてどの王朝の歴史も同じような書き方になるせいで本当のところがどうだったのかは判別が難しいらしい。両者が出会ったのはモンゴル帝国の時代で、その時初めて「世界史」というものが誕生したということのようだ。

日本の歴史は日本書紀に始まるもので、古事記は「偽書(成立年代が偽られている)」というのが著者の説。日本書紀は天武天皇が、中国の王朝に対して日本の王朝が「正統」であることを示すために書かせたもので、万世一系といわれる日本の天皇家を中心とする歴史はこの時代に始まった(神武天皇とかどうとかは歴史というより神話上の存在)ということのようだ。

いわゆる歴史認識の問題を論じていたり、現代と古代の境界を国民国家の成立に置いて中世という区分は適当ではないと書いていたり、学校で教えられたこととは違うことがあれこれ書かれており、それも筋が通っている物だから面白い。国民国家という仕組みに限界が来ていると本書には書かれているが、その後国連やEU、NATOといった超国家的な組織の方にこそガタが来ている感じで、この本を書いた当時の著者が今の世界情勢を見たときにどのようなことを考えるのか、見て見たかったような気がする。

『ヒトラーの正体』著:舛添要一

舛添要一さんというと、都知事をやっていた印象しかないが、実はもともと世界史の学者で、ヒトラーに関する書籍もいろいろ読んだそうだ。ということで、本書は長年の読書や研究の成果を生かし、ヒトラーに関して来歴や様々な側面を俯瞰的に書いたヒトラーの入門書である。

代替内容は2つに分かれて、前半がヒトラーの半生、後半がヒトラーの「反ユダヤ主義」、「プロパガンダ」、そして「ヒトラーに従った大衆心理」という3つのトピックについて語る感じである。前半部だとヒトラーがワイマール憲法下で合法的に独裁体制を構築する過程がかなり詳細に書かれており、後半の3つに先立つ1つめのトピックといえるかもしれない。ホロコーストに至る反ユダヤ主義の流れはヨーロッパに長年根を張っていたもので、ヒトラー自身もウィーンで反ユダヤ思想家の影響を受けて自身の思想を醸成したというのが本書の説である。技術の発達やなんやかやで、長年醸成された反ユダヤ主義が行くところまで行ってしまったのがホロコースト、と解釈することも出来るようだ。

舛添さんとしては、トランプ大統領を代表として2019年現在の世相にヒトラー台頭時の世相を重ねてみているようで、それが本書をものした理由の一つであるようだ。ヒトラーが独裁体制を構築するうえで鍵になったのがワイマール憲法の48条の緊急事態条項で、その辺を考えると、昨今日本国憲法の改憲を希望している代議士の人たちがいの一番にそこに手を付けようとしているのはどうもまずいような予感がする。昨今東アジアの地政学的情勢が大きく動こうとしている中、戦争に巻き込まれた際のことを考えておく必要はあると思うわけだが、改憲ではなく現行憲法下における非常事態への対策法規でなんとかならないものなのだろうか?改憲するならむしろ勤労の義務を削除し、人権保障の観点をより強める方向で改憲していただきたいもんである。

目からうろこが落ちる、みたいな体験はなかったが、全体を俯瞰する本で参考文献も豊富なため、ヒトラーに興味は出たがどれから手を付ければ、と思っている際には良い本なのではないだろうか?

『昭和史 1926>>1945』著:半藤一利

個人的に歴史、特に日本の近代史、戦前史を勉強し始めたのはここ5年くらいのものだが、最初に読んでおけば良かったと思った。本書は戦前生まれの歴史の語り部的な著者が、長年の文献研究と当事者への聞き取りの結果を総合して、15回の講義としたものの口述筆記である。年代としては1926年から1945年。いわゆる戦前というやつである。

陸軍や海軍それぞれを単独に悪玉にするわけでもなく、とはいえ国民の傲慢や熱狂、メディアの扇動も取り扱い、誰かを悪者にして一面的に捉えるだけでは見えてこない「なぜあんなアホな戦争を始めたのか?」そのうえで「なんであんなアホの積み増しをやってメタクソになるまでやったのか?」を解き明かそうとしている。

とにかく昭和の元年から昭和20年の太平洋戦争終結までを一気通貫に取り扱っているので、個別の戦史や、たとえば2・26事件のような大イベントについて掘り下げる前に読んでおくべきだったと思った。ただ、近代史はとにかく登場人物が多く、エピソードもかなり具体的に残っているので、最初に興味を持ったトピックや人物を中心にひっかかるフックをいくつか作っておいて、本書でそれらの間をつなげる、みたいな読み方は結果的に良かったのかもしれない。

恐らく2019年現在は歴史の変わり目で、ついに東アジアにもきな臭い臭いが漂い始めている訳だが、そんな中で日本が国としての舵取りを間違えないように、主権者として歴史の勉強はしておかないといけないだろう。そして、本書はその勉強のどこかで読んで損のない一冊だと思った。

『昭和16年夏の敗戦』著:猪瀬直樹

太平洋戦争開戦間近の昭和16年7月、「総力戦研究会」という当時の若手エリート達が集められた場で、太平洋戦争の多角的なシミュレーションが行われた。その結果は「日本必敗」、さらにその過程も実際の敗戦の過程にほぼ一致した。後に首相となる東條英機も聴講していたと言われるシミュレーションの結果は、なぜ実際の政治判断に活かされなかったのか? 

というようなことを書いた一冊。総力戦研究会のシミュレーションは当時の大日本帝国が置かれていた国際状況に沿った情勢の設定が教官側から行われ、学生達はそれぞれの専門性に概ね沿った形で「大臣」を分担する「疑似内閣」を構成する形で情勢設定に対する国としての対処を考える、というものだったようである。読んでみると意外と総力戦研究会一色という感じでもなく、実際の開戦経緯の解説や、「独裁者」のイメージとはかけ離れた、天皇の忠臣としての東條英機の人物描写等が多く含まれる。

完全に歴史の後知恵だが、日中・太平洋戦争を現在から見ると「なんで勝てる見込みのない戦争をやったんや、当時の日本人は阿呆やったんか?」と思えてしまうわけだが、優秀な若い奴を集めてしがらみなく検討させれば、不都合だが合理的な判断は下せたのである。問題はその先、現実には合理的な判断は採用されず、トップの思い込みと部門間の力学、そして空気が物事を決めていき、結論に都合のいい皮算用がねつ造されさえする。で、勝てない戦争に負ける。

日露戦争の成功体験に目を曇らせて判断を誤り、日中・太平洋戦争の敗戦に至る道筋を、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」からバブル崩壊を経て30年以上にわたる平成の凋落に重ねてみる向きはあるが、自分にもどうしてもそう見えてしまう。結局日本の課題は、不都合だが合理的な根拠や事実を真摯に受け止めて、組織の力学を飛び越え、我田引水したがる利害関係者を黙らせ、(時には痛みを伴い、効果が出るまでに長い時間がかかる)本質的な対策を行えるか、そういうことができる組織を作れるか、ということにあるのだろうなぁ。歴史上2回目の失敗を繰り返そうとしているというのには、日本社会や日本文化が抱える本質的な瑕疵の存在があるような気がするのが非常に辛い(自分も恐らくその一端を担っているのであろうことも。)

戦争に関する本を沢山読んで研究しているわけではないが、そもそも当時の人たちが日中・太平洋戦争をどのように考えていたのか?については
加藤陽子「それでも日本人は戦争を選んだ」
当時の大本営の資源計画がいかに杜撰であったか、シーレーンの崩壊が実際にはどのように推移したかについては
大井篤「海上護衛戦」
が役に立った。本書を読んでみようという人の参考になると嬉しい。

  

『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』著:一ノ瀬俊也

日本陸軍というと、人を人と思わぬ自殺攻撃一辺倒という印象があったが、それが半分あたりで半分外れということが分かる本。日本側の資料は今の公文書と同じくろくに残っていないので、アメリカの資料(Intelligence Bulletin)を元に書かれている。

さて、日本陸軍の歩兵部隊が機材に勝る米軍に対して取った戦術がどうだったのかというと、第一に思い浮かぶイメージというと三八式歩兵銃に銃剣つけて、大声上げて無謀な自殺突撃を行う、というのがあるが、本書によるとさにあらず、白兵戦は忌避していたようで、機関銃を使ってみたり、待ち伏せ作戦をしてみたり、狙撃兵を有効に使ったり、戦場によっては組織的な撤退をやってみたりと色々試みてはいたようだ。硫黄島作戦の持久作戦は栗林中将の個人的な創意工夫かと思いきや、その前の東南アジアでの戦いから色々試みられていたというのは目から鱗。やはり物事を過度に単純化して捕らえてはいけないか。とはいえ、対戦車兵器の開発は不足していたし、肉弾戦術は常用していたし、まぁ結局のところ負けるべくして負ける戦に相当悪い負け方をしたというのは大筋としては変わらないようである。また、1944年から45年頃になって陸軍が良く戦いすぎたが故に、「戦争を早期に終わらせてアメリカ兵の犠牲を減らす」という原爆投下の大義名分を与えてしまったのは皮肉に思える(これもそれだけの理由ではなかっただろうが。)

戦傷者へのひどい扱いと対照的な死者への丁重な弔い、日本人の性質を利用した捕虜からの情報収集等、「全然ダメじゃねぇか!」と国際的にも有名で、ともすれば現代の我々にも見られるような、気が滅入るような日本人のアレな所もバッチリである。

というわけで、巷間いわれる日本陸軍のイメージをいくらか覆してくれる一冊ですので、私のように余り詳しくない人は読んでみるといいのではないだろうか?

『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』著:井上寿一

なんだか最近第二次世界大戦の本ばかり読んでいる。なんとなく世の中にきな臭いものを感じるのかなんなのか。本書はタイトルの通り、「戦争調査会」という終戦直後に日本政府関係者自身によって日中・太平洋戦争の開戦と敗戦理由を調査した委員会の調査報告書について解説を加えるという体裁の本である。

「一億総懺悔」という言葉の元に思考停止するのではなく、当時の日本人の手で、可能な限り客観的に負けた戦争を多面的に分析しようとしていたのだというのは、教科書レベルの近代史知識しかなかった自分にとっては新鮮だった。GHQによって戦争調査会のプロジェクトは未完のままに終わってしまったという史実は実に残念である。

結局なんであんな勝ち目のない戦争を始めたのか、どうして良いところで辞められなかったのかということに、「これだ」という単独でスッキリした理由なんてないのだろう、という「おわりに」に述べられていることが、本書の一番の収穫であったように思う。というわけなので、これからも折に触れて色々な本を読んで勉強したいものである。

『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』 著: 吉田 裕

現場にいた兵隊の視点から様々な資料を引用しつつ、戦場にいた旧帝国陸海軍の兵士達がどのような扱いを受けていたのか(主にどのように死んでいったのか?)を記した本である。筆者のライフワークの集大成という感じだろうか?一兵卒の体験談としては『海軍めしたき物語』シリーズや、水木しげる先生の『総員玉砕せよ』等があるが、これは戦後生まれの著者が収集資料に基づいて客観的かつ網羅的に解説する本である。恐らく歴史学者である著者の主著を見れば色々細かいことが書いてあるのだろうが、これは広く浅く全体感を示す感じ。

本書の前半では特に軍人、民間人を合わせて280万人(全体の90%)近く亡くなったといわれる1944年以降の「絶望的抗戦期」を取り上げてその時期に日本軍の兵士が置かれていた状況を書いている。インパール作戦やガダルカナル島の戦いの悲惨さは良く聞くが、中国戦線に関しても、南方との人員、物資のやり取りについてもひどいものだったようである。正直言って本書を読む限り、帝国陸海軍は国を守る、国民を守る組織としてはあまりにお粗末という感じである。戦時医療体制、特に歯科医療体制のお粗末さ故に前線の兵士に虫歯が多かったといったことや、動けない傷病兵や行軍からの落伍者を「処置」していったこと、戦場ストレスによる拒食症(いわゆる戦争栄養失調症)、自殺率の高さ、と戦場は平時とは全く異なるとはいえ、はっきり言って帝国陸海軍の兵士(我々の祖父たちの世代)の置かれていた状況は酸鼻を極める。

後半では、どうして自軍の兵士にそんな酷い仕打ちをするに至ったのかという旧日本軍の体質を解説している。そもそもの戦争指導体制から内部統制、工業力といった様々な視点から書いている。

私の祖父も戦争末期に中国戦線で戦っていたそうだが、良く五体満足で帰ってきたものだなぁと思う。子どもの頃に見た優しい笑顔を思い出すが、その目は一体どんな地獄を見てきたのだろうか?もっと話を聞いておけば良かったと、切に思う。

『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』著:鴻上尚史

2013年にゲーム「艦これ」を始めて、軍艦や軍用航空機の名前を覚え、区別ができるようになりました。第二次世界大戦についての知識が深まるにつれて喉に引っかかる小骨が、「特攻」や「玉砕命令」でした。本書はそれについて現代人の視点から書いている本で、2015年に亡くなった不死身の特攻兵、佐々木友治さんへのインタビューを含む一冊です。『「空気」と「世間」』、『孤独と不安のレッスン』等の著作もある劇作家の方で、私は個人主義、自由主義の立場から日本社会の悪いところ、息苦しさや閉塞感になんとか抵抗しようと考えている人だと理解しています。奇跡的なタイミングで佐々木さんに会うことができたという下りを語る部分は大変叙情的で演劇の台本のようです。

我が国の陸海軍が行った世界にまれに見る自殺攻撃「特別攻撃」については、それを拒否して工夫に工夫を重ねて戦果を挙げた「芙蓉部隊」について書かれた『彗星夜襲隊』を読んだりはしましたが、本丸については、現代の価値観で断じて良いものなのかどうなのか等色々と個人的に抵抗感があり踏み込んで勉強できずにいました。特攻で死んでいった人たちを英雄視する一方で、特攻を命じた人たちの無能や愚かさ、サイコパシーを批判する声もあり、とはいえ一般には前者が前面に出され、「戦争は二度とやってはいけません」的な学校道徳的な合い言葉で思考停止させられているような感があり、実際のところはどうなのか?というのを知りたい一方で、触れがたく感じていたのです。というわけで本書です。

#はじめに

読む限り、現代風の個人主義、自由主義者でも、現代風の「命を大事に」という思想を当時の佐々木さんが持っていたわけではありませんでした。それにもかかわらず、佐々木さんが上官の命令を拒否しながら「不死身の特攻兵」たり得たのはなぜだったのか?は本書を読んでいただきたいのですが、自分としては以下の項目が重なったからなのかなと思います。

– 佐々木さんがお父さんから教わった命に対する考え方
– 「航空兵」としての実力、できるだけ沢山戦果を挙げるということに対する真摯さ
– 「空」という自由になれる時空間
– 理不尽に屈せず自分の権限の範囲内で協力してくれる上官や同僚

#「王様の首は革命と共に落ちるためにある」

本書の中では、特攻作戦に参加した現場の隊員達と、それを命じた指揮官は分けて考えなくてはならないだろうと主張されています。過剰に美化された特攻隊員のすがすがしい姿、といったものがよく前面に出されますが、実際のところはそうではなく、最後の最後まで死を受け入れるために激しく葛藤する、あるいは、死を命じる上官の理不尽さや有効性や合理性の乏しい作戦に命を捧げなければならない無念さをどうにかこうにか飲み込んで飛び立ったのだ、ということが書かれています。他方、特攻を命じた富永恭次といった指揮官や戦争指導部に対しては、戦後自らの汚名をごまかすために隠蔽工作を行ったことも含めて責任を追及し、原因を分析し、繰り返されないために考えねばならないと書いています。

特攻が途中から「志願」という名の強制に近いものになっていったくだり、上司は確かに明確に指示を出してはおらず、部下が自主的にやったように見せかけつつ、事実上指示を出している、というあたりは、現代日本の組織が起こす不祥事などでも散見される事例ですね。70年たっても、あれほどボロクソに負けまくっても結局のところは変わっていないのだなぁと。権限と責任そしてそれなりの待遇というものは三位一体のものであり、往々にして皆権限と待遇だけを得て、できるだけ責任を取りたがらないものなんでしょうが、やはり決定権を持っていた人に対する責任追及というものは何事につけきっちりやらねばならんのだなと思うのでした。そして、自分が決定権を持つことになったときには、つくづく「ダサい大人」になりたくないなぁと思うのでした。

#さいごに

『「空気」と「世間」』が山本七平の『「空気」の研究』と阿部謹也の『世間とは何か』を元にしているのに対して、本書は高木俊郎の『陸軍特別攻撃隊』が元になった本なのでしょう。絶版なのが実に惜しい。本書を読んで是非とも読んでみたくなりました。

個人主義や自由主義が全面的にいいのか?弊害はないのか?という話はあるんですが、集団の中でマイノリティとして抑圧されたり、居心地が悪い思いをしている人間にはやっぱり重要な思想のはずなんですよね。特に、集団が個人の自由や命を押しつぶそうとするあれこれが、現在でも散見される日本社会においては特に……。

 

『戦争は女の顔をしていない』著:スヴェトラーナ・アレクシェービチ 訳: 三浦 みどり

第二次世界大戦の独ソ戦に従軍したソ連軍女性兵士達の体験談を集成したもの。戦時性暴力、飢餓、人肉食、赤子殺し、本書は悲惨な体験のデパートで、子どもの頃に聞いた戦争体験や、日本だと8月15日前後に増える第二次世界大戦を回顧する番組で、戦争体験者が語る体験に非常に近い。洋の東西を問わず、第二次世界大戦は本当に壮絶で悲惨な戦争だったのだろうということがよく分かる。そして恐らく、今も地球のどこかで起きている紛争や武力衝突と呼ばれるものも、同様にひどいものなのだろう。

共産主義、社会主義国の息苦しさ、上流階級のテクノクラートではなく、特に地べたで生きている大多数の人たちの息苦しさ、みたいなものは、理解できるような理解できないような。それも自由主義の国から見た身勝手な視点なのかもしれないが。

一人の回想録だが、傷痍軍人の手記という意味では「アメリカン・スナイパー」と対比したくなる。あの本はマッチョなアメリカ人男性、しかもSEALS隊員という極めつけのマッチョ男性の視点から書かれているものなので、なんとなく勇ましい書き方がされている。それに対して本書の筆致は、まさに若い頃の悲惨な体験を引きずりながらなんとかかんとか生きてきたおばあさんが、時には涙を目に浮かべながら、語ったのだろうなというのが分かるような気がする(過剰なイマジネーションかもしれないが)。

『海軍めしたき物語』『海軍めしたき総決算』著:高橋孟

戦争体験を語った本はいくつもありますが(出版されていませんが、うちの祖父も書いています)、そのうちの1つ。坂井三郎の『大空のサムライ』のような軍人の花形の血湧き肉躍るような回顧録ではなく、海軍の艦の中でタイトルにもあるように「めしたき」、要するに調理をやっていた方のお話です。

筆者は、太平洋戦争が始まる前に海軍の主計課(いわゆる経理課ですね)を希望して志願したわけですが、当初の希望とは裏腹に最初は烹炊兵として戦艦「霧島」に乗り込み、真珠湾攻撃からミッドウェー海戦までを乗組員として過ごします。その後試験を受けて主計兵として働き始め、経理学校にも通い(この辺で結婚もする)、武昌丸という砲艦に乗り込んで南方で活動した後、沈められて命からがら生き延びます。その後日本に帰って九州の飛行場で勤務していたら、終戦を迎えたというもの。最後は何人かの同僚と馬車を引いて、故郷の愛媛に帰るまでが描かれます。

「ギンバイ(食料品など、船の備品をちょろまかすこと)」や初年兵の時に浴びる強烈で陰湿な「シゴキ」など、記事の枕にも書いていますが血湧き肉躍るところがありません、というかあの時代に生まれなくて良かったと思うことばかり。軍隊といっても、結局組織を作っているのは人間であって、自分が所属してきたクラブ活動や会社にも通じるところがあるなぁと思ったりしました。本書の中に描かれている、復員の時の秩序も何もあったもんじゃない様子は、負けた軍隊ほど情けないものはないものだな、という感じです。

勇壮な戦記物とも、悲惨な空襲の記録とも違う、別角度からの「あの戦争」いかがでしょうか?

絶版になってしまっている本で、古本を手に入れたのですが、是非とも復刊して欲しいですよねぇ……。