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神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈 著:安丸 良夫

日本人の信仰の基底は何か?という問いに、明治維新の際の廃仏毀釈の経緯を整理することで答えようとする一冊。改元、新天皇陛下即位の儀式等で国家神道が前面に出ている今こそ読むべき本と言っていいのではないだろうか?

名前くらいは聞いたことがある廃仏毀釈であるが、始めたのは本居宣長的な「国学者」たちであった。寺請け制を以て統治機構に組み込まれていた寺社から政治的影響力を奪回したい国学者と欧米に負けない統一国家を作るために国民の意識の統合を狙う明治新政府が結託というか、お互いを利用し合う形で始めたものだったようで。とはいえすべてがトップダウンにエレガントに進んだというよりは、虎の威を借る狐的にそれぞれの地域で勝手に寺社を破壊したり、仏像を捨てて鏡を置いたりといったことを行った人もいたようだ。あれこれあって「信教の自由」を採用してキリスト教も解禁され、国家神道のあれこれは明らかに宗教的な儀式であるにも関わらず、微妙に宗教的なものではない的な方便(現行憲法下における自衛隊に通ずる物がある)で戦後日本においても国家事業として執り行われている、ということのようだ。

日本人は今でこそ無宗教と言われたりするが、現在神社とされているものが昔はお寺だったり、国家神道の神々の体系の外にいる土着の神様を祀っていたり、本当に「混沌とした多神教」だったようである。古いおうちにある神棚や、田舎の道ばたにあるお地蔵さんが、大きな神社の神様と同等の存在で、ほんの200年くらい前までの日本には八百万の国と言われるにふさわしい、十重二十重の信仰とおまじないのレイヤーが被さっていたようである。そう思うと近所の神社の縁起を調べてみたくなる。

というわけで、一昔前の日本は今とは微妙に異なる宗教世界であったらしい、という想像力を養う上で、良い一冊。

『イスラム教の論理』著:飯山陽

正義の対局は悪ではなく、別の正義だ、とは現代のフィクションでは常識のような考え方ですが、本書に書かれていることは現代日本から見て、まさにそれを体現する実在の人々に関する話と見ていいでしょう。日本人の宗教観からするとかなりかけ離れた人たちで、自分の側に引き寄せて共感したり、理解した気になるのは危険かもしれないよ、というのは私としては納得感のある話でした。

イスラム原理主義とはよく言ったもので、非信者に対する強烈な差別意識と攻撃性を示すイスラム教徒のコーラン解釈もイスラム教の「正統な」解釈の一つで、それ故に世俗派、穏健派と呼ばれる人たちも否定できないそうです。事実、穏健派や世俗派とされているイスラム学者、指導者たちも否定できていない、という例が示されています。インターネットやSNS経由で原理主義の過激派に勧誘された人たちが出る理由が、そもそもインターネットとイスラム教の相性が良い(物理的な距離を超えて過激思想と出会い、「目覚めて」しまう)という事もあるようです。

イスラム教に関して学ぶことは、歴史を学ぶことや、フィクションを読むことに近いのかもしれないと思いました。つまり、我々の常識や正義と異なる信念を持つ相手、場合によっては相手に憎しみを抱いたり、共感できなかったり、愚かに見えたりする自分の主観をできるだけ排して、「相手なりの合理性」を理解しようとするというか。まぁ、そんな感じです。問題はイスラム原理主義者は、現代に実在する人間の集団であり、こちらに争う気がなくてもジハードを仕掛けてくる場合があるということで、そこは流石に我々の正義に基づいて自衛せねばとあかんという話なんでしょうか……。それをやってしまうとアメリカや欧州のように泥沼に引き込まれるわけで、どうすれば良いんでしょうかね……。

本書を読むと以下のツイートに出てくる「現地の人」の論理がなんとなく分かるかもしれません。

『沈黙』著:遠藤周作

比較的宗教に寛容だといわれ、イスラエルや中東で繰り広げられている宗教を巡る争いや暴力に無縁と思われがちな日本ですが、かつては苛烈な宗教弾圧を行っていました。歴史の教科書では「隠れキリシタン」とか「踏み絵」とか呼ばれるトピックで取り扱われる江戸幕府のキリスト教弾圧です。本作はこれに題材を取った作品で、日本のキリスト教文学の白眉だそうです。最近外国の監督が映画にしていました。

テーマは「神の沈黙」、ストーリーは一本筋で、主人公である宣教師が、江戸時代の長崎で拷問に耐えかねて棄教するまでが描かれます。貧困、不潔、飢え、悪臭、痛み、梅雨の不快な湿度といった情景の描写が巧みで、とかく主人公が置かれる過酷な環境がこれでもかと描かれます。私はキリスト教徒ではないので、彼らの神に対する考え方は断片的にしか分かりませんが、信仰、良心と現実の厳しさの間で揺れ動く主人公の心情が身に迫りました。対して弾圧を行う日本人の役人達は血も涙もない人間として描かれ、命の価値が現代とは違うとはいえ、よくもまぁ他人に対してここまで冷酷になれるものだと思わされます。いやはや、すごい作品です。

もう一人の重要な登場人物はキチジローという日本人です。彼はキリスト教徒ではあるのですが、暴力に即座に屈して踏み絵をしてしまうような「弱い人間」です。そんな彼も、おそらくはキリスト教に対して追い風が吹いていた時代ならば敬虔な信者として生涯を送れたであろうに、向かい風が吹く作中の時代には酒に逃げるわ主人公を売るわで、一言で言うなれば「人間のクズ」。キリストの教えとそれを奉じる主人公は彼をも許しうるのか、というのも作品の柱です。

本作はキリスト教をテーマにしていますが、置かれた状況と本人の選択(それすら少しの手違いで違った物になっていたかもしれない)の結果そうなってしまった「醜く、貧しく、卑屈で、怠惰で……etcおおよそ付き合いたいとは思わないような人々」にいかに手をさしのべるのか、というのは僕らにも突きつけられる問題だよなぁと思います(自分がそちら側に回るかもしれないということを含めて。)

キリスト教に限らず人間社会の普遍のテーマを、巧みな文章と説得力のあるストーリーで編み上げた名作、現代にこそ読まれるべき一冊でしょう。

 

『虚無の信仰 西欧はなぜ仏教を怖れたか』 著:ロジェ・ポル・ドロワ 訳:島田裕巳、田桐正彦

要約すると、19世紀のヨーロッパにおいて仏教が「虚無の信仰」として誤解され、怖れられていたという史実について、その状況と経緯について書いた本です。誤解が解けて受けいられていくプロセスについても書かれています。

細かい議論を枝落としして要約すると、どうも「仏教=虚無の信仰」説は、科学による自然の原理の解明と、哲学の思索の結果たどり着いてしまった「神の不在」「道徳と真理の物別れ」と、仏教が西洋社会に紹介されたタイミングが一致したことによって生じたもののようです。要するに仏教それ自体の性質やあり方とは関係なく、西洋が「神の不在」によって精神的な基盤を喪失しているところにたまたまそれっぽいものが入ってきてしまったに過ぎない、ということのようです。「悟りを開く」とか「無我の境地」といったものが、「虚無」と結びついてしまったようです。このあとヨーロッパ人の非ヨーロッパ人に対する人種的優越みたいな形で人種差別に結びついてみたり、後世の人間から言わせていただくと何言ってんだこの人たち状態です。

ただ、異文化の理解という問題に一般化すると、この本を読んでいる日本人の僕が「虚無の信仰」の深刻さとか、「神の不在」がヨーロッパ人のアイデンティティに与えた破壊的な影響の深刻さを正しく理解することも、同じく難しいのだろうなと思います。読んではいるけど、「虚無の信仰」の「虚無」の深刻さも、僕らはおそらく分かっていない。当時の人の「マジさ」が理解できないのと同様、この本が書かれるに至ったのであろう現代ヨーロッパの平均的なアジア理解のレベルも分からないだろうと思います。

このように、異文化や異なる宗教を理解することの難しさを疑似体験させてくれる一冊です。おそらく専門書に近い本だと思われるので、なかなか読むのに苦労しますが、正直最初と最後だけ初学者というか、門外漢には十分だと思いました。

『 蝉丸Pの徒然仏教講座』 著:蝉丸P 挿画:田丸浩

ネット,というかニコニコ動画で積極的に活動されているお坊さん,蝉丸Pが仏教についてネットスラングもりもりで書いた入門書.
仏教の基本的な考え方に基礎知識,お釈迦様の生涯から海外の仏教事情まで,仏教を手広く扱った教養書として大変面白く,ネットにある程度親しんだ人間には読みやすく,端的に良い本だなと思いました.
あと,面白いのが「新興宗教の教祖様になれば,税金もかからず,場合によっちゃ信者の若くてかわいい女の子と色々できるんじゃなイカ(意訳)!?」という安直な発想に対して,「そうは問屋が卸さないよ,相当な鉄面皮じゃないと無理だよ.(意訳)」と.なら「実務をやるナンバーツーはどうか?」というと,「結局人の集団には違いないので,そこを上手く切りまわせる人は実社会でも上手くやれますわい(意訳)」と書かれておりました.本当に人生に一発逆転はないものだなぁと思います.
仏教の細かいディテールは正直複雑すぎて,個人的には一読で理解出来なかったのですが,「人生色々あるから,うまくいかなくなったときにインスタントな救いの手を差し伸べて,実は搾取する気満々という新興宗教につけ込まれないように,普段から信仰は持っておいた方が良いよ.」というのは個人的には本書最大の役得かなと思いました.

蝉丸Pのつれづれ仏教講座 蝉丸Pのつれづれ仏教講座
(2012/06/15)
蝉丸P

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