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『ご冗談でしょうファインマンさん』著:リチャード・P・ファインマン 訳:大貫昌子

ノーベル賞を受賞した物理学者リチャード・ファインマン先生の逸話集。本人が書いたというよりは、本人がパーティーの席なんかでおもしろおかしく語るエピソードを集めたものを他人が口述筆記?したもののようである。方々で名著と言われるが、確かにとても面白かった。

とにかく逸話から受ける印象は、「とびきり頭がよくて、人生を楽しんでいる、スケベなオッサン」という感じ。一つのことを突き詰めた結果、そこから得られるある種の自信や確信が他の様々なことににじみ出ている感じ。これくらい人生を楽しめたなら、さぞ素晴らしいだろうなと思わされる。変にえらぶったりせず、かといって官僚主義におもねることもなく、ただひたすらに自分のペースを守るのは実にうらやましいというか、なんというか。本書を読めば絵を描いてみたくなるし、楽器を練習してみたくなるし、ストリップバーに出かけてみたくなること請け合い。

この本ではそういう印象なのだが、物理学者としては、「経路積分」という独特の方法で量子力学にアプローチして、最初は異端視されたりしたが、自分で道を切り開いて今では様々な分野に応用されていたりする。そんな学者としてのエピソードが解説で補強されていたりして、本文も面白いのだけれど、本全体としてもファインマン先生の人となり、魅力を存分に伝える一冊になっていると思われる。

物理をちょっとかじったこともある人もない人も、とにかく「とびきり頭がよくて、人生を楽しんでいる、スケベなオッサン」の自然体のあり方が、なんとなく心を軽くしてくれるかもしれない一冊である。特に現代の日本においては、たとえ学者であったとしてもこんな風に生きるのは至難の業だとは思うが……。

 

『走ることについて語るときに僕が語ること』著:村上春樹

村上春樹のエッセイ。村上春樹というと、親の蔵書の「ノルウェイの森」を読んだことがあるくらいで、(思春期の自分にとっては完全にスケベ小説だった)特にフォローしているわけではない作家である。基本的にあまのじゃくなのでベストセラー作家の本って買いたくなくなるのだ。要するに、「僕が買わなくても誰かが買うでしょ?」という気持ちになる。じゃあなんでこの本を買ったのかというと、旅行に持って行くつもりだった本を家に忘れてしまい、空港で売っていた本で目を引いたのがこれだったという顛末である。

……というくらい村上春樹に対する関心が薄い人間なので、村上春樹がかなり本格的な市民ランナーだったというのを本書で初めて知った。しかも結構ランナー歴が長いらしい。あと、地味に大学を卒業してしばらく飲食店やっていたとか、若くして結婚しているとか、世界中いろんな街に住んでいるとか、彼の人となりを知ることが出来るという意味で村上春樹初心者向けといえるかもしれない、作家の人となりを知ることが必要かどうかを置いておいて。エッセイとはいえ、するすると入ってくるそうめんみたいな文章はやはり村上春樹である。作家らしく色々ものを考えながら走っていて、それらが大作家らしく上手く文章になっているなと感心した。とまれ、彼の健康に対するスタンスには共感するところがある。彼ほどの作家と比べると自分のやっていることなど月とスッポンであろうが。

なんだかよく分からないがこの記事を書いていると知らぬ間に村上春樹という単語を連呼しており、これが村上春樹という作家の魔力なのかもしれないと思いつつ、そろそろ村上春樹という文字列がゲシュタルト崩壊してきたので、この辺で筆を置きたいと思う。

『医師の一分』著:里見 清一

帯のあおり文句には、2016年の中頃に世間を騒がせた某大量殺人事件を思わせるわけですが、もちろん現役のお医者さんが書いているのでそんなことはなく、現代の医療と死生観についての辛口エッセイという感じの新書でした。元々どこかの週刊誌の連載だったようで。

そもそも生きているとはどういう状態なのか、判断力を何らかの形で失ってしまった人の自己判断を尊重するとはどういうことか、医学の専門知識のない患者本人に、説明をした上とはいえ自分の治療方針を自己決定させることはそもそもフェアなのか、災害で多数のけが人が出ているわけでもないが、深夜の救急医療の現場で複数の患者さんが重なったときにどの人から治療すべきか(所謂トリアージですね)、などといった微妙な問題に切り込んでいます。

無限に医療や介護に携わる人がいて、無限に予算があって治療を施せるならそれでいいんでしょうが、今後の日本は医療や介護のお世話になる側ばかりが爆発的に増えていくような状況になるわけで、死んでいく人のお守りばかりしても国は沈むばかりです。命は平等でありそれぞれ尊重されなくてはならないが、とはいえ現実的に目の前に溢れる救うべき人を資源の制約の問題から選別しなくてはならない、となったときにどうするべきなのかというのは難しい課題でしょう。自分は医療に携わる人間ではないし、あるとすれば身内の介護くらいのものでしょうが、本当に気が重いです。自分自身も最終的には老いて衰えて死ぬわけで、できるだけその時の若い人に迷惑をかけないようにしたいわけですが、人生自分の思い通りにならないの筆頭ですからねぇ、老病死の問題は。

ということで、自分の人生に訪れるであろう老病死について思いを馳せるには適当な一冊かもしれません。

『オタクのための整理整頓・掃除・生活術』 著:雛咲悠

オタクのための整理整頓・掃除・生活術【完結】

既に人気を博している記事で、今更このブログで取り上げるまでもないものかもしれませんが大変よいシリーズ。結局部屋が汚いというのは、

おおむね
(持ち物量)>(収納量)

(持ち物量)<=(収納量)だが、こまめに片付ける習慣を持たない
かのどちらかなわけで、

まずは最初に「所有するに値する物」を分別して、物の管理をキチンとしましょうねというスタンスは個人的に非常に同意するところ。考え方次第ではありますが、少なくとも物語を消費するタイプのオタクの場合、摂取した物語は多少なりとも自分の人格なり物の考え方なりに影響を与えているわけです。なので、たとえ自分の前からなんらかの物体の形をしたそれを除去したとしても、そもそもそれは自分の一部になっているように思うのですよね。少なくとも私の場合、こう考えるようになってから、割と躊躇なく本やら漫画やらを処分できるようになりましたし、意外と手放してしまうと執着しないもので、物がなくなったスッキリ感のみが残るという経験をしています(私だけかもしれませんが)。ノートなりなんなりに記録だけしてしまって、物は処分するというのも一手だと思います。今時、ネット通販なりなんなりを駆使すれば、少なくとも商業作品については買い戻すことも可能だと思いますし。

後半は一人暮らしの掃除術みたいな方向に行くわけですが、部屋の掃除というものは衛生という観点のみならずメンタルヘルスの面からも重要なスキルであるにもかかわらず、系統だって教えられる機会のない技術(そういうものはたくさんありますが)であり、整理整頓、掃除術をまるっと紹介する本記事はオタクでなくても非常に意義深い記事であるなぁと思うのです。掃除や整理整頓のノウハウは結局一人暮らしを始めるなりなんなりして、必要に迫られて実地で学ばなくては身につかないわけで、そんなときに役に立つ記事だと思います。

最後に蛇足かもしれませんがミニマリストについて。ミニマリストって生活スタイルは個人の自由だし、物の整理や管理にかかるコストを最小化するという意味で自分も合理的だとは思います。スッキリした部屋には私もあこがれがあります。しかし、水、食料、衛生用品、エネルギー、あたりは最低限自分で備蓄すべきではないかなぁと思うわけです。首都直下型の災害で物流インフラが崩壊したら、待てば助けは来るだろう、といえど1週間で首都圏1000万人以上の人間に水と食料を十分供給できると思います?ということで、自分の分と、周りの困っている子どもに分けてあげられる分くらいは、食料などを備蓄してもいいんじゃないかと思います。家ごと津波にのまれたり、地震でつぶれたりしたら一巻の終わりなんですけどね……。

『ヨーロッパ退屈日記』著:伊丹十三

ブルータスとかポパイとかGQとか、ハイソサエティのできる男、文化の分かるシティボーイのようなイメージでものを売る、一部の男性ファッション誌の世界観の元祖のようなエッセイ。これは素直に思ったことを書いていて、その世界観を商売に使っているのがファッション誌という感じでしょうか。著者は俳優だったり、映画監督だったりした伊丹十三。

料理や酒の描写はとてもおいしそう。ヨーロッパ退屈日記なので、海外で和食を苦労して食べたエピソードも載っているが、基本的には洋酒洋食。これまで読んだエッセイでいうと、和食は池波正太郎水上勉、洋食はこれ、という感じでしょうか。ちょっと気取った店にカクテルでも飲みに行きたくなりそうです。

読み出しの印象は「スノッブ!」という感じだったのですが、最終的には、多分この人は本気なんだろうなと思えてきました。昭和40年出版ということは日本人も海外慣れしていなくて、海外で色々と馬鹿にされたり醜態をさらしたりしていた時代だったんでしょうから、その辺を事情を鑑みると、多分そういったものが許せなかったのかもしれませんね。日本の町並みに苦言を呈しているところには同意するところ。貴重なものも壊してしまいますからねぇ。

『男の作法』 著:池波正太郎

個人的には俺ツエー系ラノベの源流なんじゃないかと思えなくもない『剣客商売』の池波正太郎先生が、男の道楽について語ったエッセイ。同時期に伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』も読みましたが、スノッブ臭が強すぎて個人的にはこっちの方が好みでした。

そばの食べ方、浮気について、万年筆について(いかにも作家らしい)、和服について、色々と生活の細々したところについて語るわけですが、戦前に生まれた方だけのことはあり、ちょっと時代錯誤な気もしないことはありません。とはいえ、自分なりにアレンジすれば現代の生活のちょっとした楽しみに出来そうなものもあります.特に,いろいろなことに気をやりながら同時平行に物事を進める、それを訓練するためには台所仕事が良いみたいな話は激しく同意するところです。特に平日の朝に弁当を詰めつつ朝食も作る際には同時並行作業が必須です。なんとなくこの辺りは、以前感想を書いた『女神搭載スマートフォンであなたの生活が劇的に変わる!』にも書いてあったような気もします。昭和の人なので家の仕事は女の仕事だとは言っていますが、男でもやったら良いんではないですかと思わなくもありません。まぁ、家事も賃仕事も、男女問わず出来た方が良いに決まってますよ。所帯の中でお互いスペアになりうるってのは、生活共同体としてより強固になるし。

あと、世の中お互い様というか、人間お互い支え合って世の中が成立しているから。他人に対する配慮を忘れちゃいけないっていうのはそう思うなぁと。信じられないくらい自分のことしか考えてないような人って、結構いますからねぇ……。

女性が本書を読んでどう思うかは分からんけど、男性なら、生活に「道楽」を持ち込んで日々を楽しくするヒントが載っているような気がする一冊。

 『土を喰う日々』 著:水上勉

食の豊かさとは何だろうか、と考えさせられる一冊である。
この本は、幼少の頃に禅寺に預けられ精進料理の手ほどきを受けた著者が、作家として大成して信州に移住した後に一年通して山の幸と畑の幸をいかに調理して、毎日の食事をまかなうかを書いたエッセイである。さすがに(失礼!)文章がうまいおかげで、出てくる料理出てくる料理、非常に旨そうなのである。
近年、食卓の彩りは豊かになり、毎日肉に魚にと食べられるようになって久しいが、例えば一応日々肉を食べてはいるがコンビニと、ファーストフード店をローテーションしている人の食卓と(今時の仕事の忙しさを考えると結構いるのではないだろうか?)と、この作者の精進料理を比べると、どちらの食卓の方が豊かかと言われるとよくわからなくなってくる。精進料理というのは贅沢ではないが、手間がかかっている分、決して貧相なものではないのだなということを思い知らされる。まぁ、野味、滋味という言葉がよく出てくることから、わかりやすく美味いのかと言われると土臭かったり、苦かったり、渋かったり、多分そうではないのだろうけど…。
ただ、周囲に自然の少ない都会の人間には畑をやったり、山に入ったりというのは困難だし、みんながみんな山に入って山の幸をとったとしても自然のキャパシティの問題で成立しないわけで、結局のところこの本に描かれている食生活は、ほとんどあり得ない夢のようなものなのだろうなと思わされる。
『昨日何食べた?』や『高杉さんちのお弁当』、料理漫画ではないがうまそうな食べ物が出てくる『三月のライオン』のように、手作りの日々の食事を描いたものが料理漫画において一定の勢力を持っているように見える昨今だが、昭和53年初版の本にも関わらずそれらの作品の感性に通じるものがある本作は、普段料理エッセイなんか読まないオタク諸氏も案外楽しめたりするんではないだろうか?凝り性な性分が漫画アニメから自炊や料理に向けば、オタクって男女関わらずちょっとした料理人になれる気はするのだよな。

土を喰う日々―わが精進十二ヵ月 (新潮文庫) 土を喰う日々―わが精進十二ヵ月 (新潮文庫)
(1982/08/27)
水上 勉

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