『「教養」とは何か』著:阿部謹也

『「世間」とは何か』の続編で、「対策編」の一冊。話があちこちに飛び難解で、集中して読まないと主張が分かりにくいが、本書のテーマは、「我が国で教養を身につけるにはどうしたらよいのかを考えてみた」という事だと思われる。世間と教養、関係がなさそうに見えるが、著者の考えでは関係あるのである。

「教養がある」というと、一般には本書にも書いてあるように、「多くの書物を読み、古今の文献に通じていること」とされることが多いが、本書によれば「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況」ということである。著者はこれを

  • 個人の教養:多くの書物を読み、古今の文献に通じていること
  • 集団の教養:自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況

と定義し分けている。結論から言うと、日本において身につけるべき教養とは後者の集団の教養であるとしている。著者は、人が「いかに生きるか」という問いに答えようとするときに学び、考え始めるということから出発し、教養の原型として十二世紀ドイツの思想家、サン・ヴィクトルのフーゴーに求めている。フーゴーの生きた12世紀は、「子は親の仕事を継承する」という決まり事から人々が自由になり始めた時代であり、必然的に人が「いかに生きるか」という問いに悩まされ始めた時代といえるそうだ。フーゴーの学問体系の中には学校で学ぶ自由七科(リベラルアーツ)のような所謂「学問」だけでなく肉体労働者である職人の技術のようなものも含まれていた。つまり、本来的にはホワイトカラーやインテリでなくても、教養の少なくとも一部を身につけられたという事である。そしてフーゴーの目指す理想の人間は「全世界が流謫の地である人」であり、書物ではなく実践と旅の中で博学の人となった詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハのような人であった。

日本社会において世間が立ち現れてくるのは、そこにある規範や権力階層に逆らうときである。それらから自由になって、自ら「いかに生きるか」を考えて実践しようとすると、空気のように周りにあった世間は牙を剥く。著者が文献をひもとくに、万葉集が編まれた時代から、「世間」との付き合い方に悩まされる日本人が登場する。そして著者は、「世間」に流されて生きるでもなく、それから逃げるでもなく生きていくことができる可能性を、「教養」に見いだしているといえる。上記の集団の教養を身につけることによって、自らのあり様を自分の所属する世間の外から客観的に眺める見識を持ち、その上で世間の中で世間を、煎じ詰めて人々と世間を包含するさらに大きな入れ物である社会や制度も変えていくけるのではないかと著者は言う。かつては「ままならぬもの」として逃避することしかできなかった「世間」を変えていく可能性、吉田兼好も、夏目漱石もできなかったことが、現代の我々にはできるかもしれない、と言っている。

ちょっと踏み込んだことを書くならば、本書が出版されてから20年、社会システムの底があちこちで抜けてしまい、戦後の日本が一応実現した自由や豊かさを捨て去ろうとしている現代の日本において、著者のいう教養の重要性は増していると言っていいのではなかろうか?

本書はHow to本ではない。個々人が属する世間、知識やものの見え方も異なり、時代や世界は時々刻々と変わる。具体的な指示を与えても意味がないのだろう。普遍性を持つのはこの程度の心構えであり、個別の問題に取り組むにあたっては各自が自主的に学んで、考えて、実践するしかない。結局は「自分の人生」なのだから。

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