『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』著:鴻上尚史

2013年にゲーム「艦これ」を始めて、軍艦や軍用航空機の名前を覚え、区別ができるようになりました。第二次世界大戦についての知識が深まるにつれて喉に引っかかる小骨が、「特攻」や「玉砕命令」でした。本書はそれについて現代人の視点から書いている本で、2015年に亡くなった不死身の特攻兵、佐々木友治さんへのインタビューを含む一冊です。『「空気」と「世間」』、『孤独と不安のレッスン』等の著作もある劇作家の方で、私は個人主義、自由主義の立場から日本社会の悪いところ、息苦しさや閉塞感になんとか抵抗しようと考えている人だと理解しています。奇跡的なタイミングで佐々木さんに会うことができたという下りを語る部分は大変叙情的で演劇の台本のようです。

我が国の陸海軍が行った世界にまれに見る自殺攻撃「特別攻撃」については、それを拒否して工夫に工夫を重ねて戦果を挙げた「芙蓉部隊」について書かれた『彗星夜襲隊』を読んだりはしましたが、本丸については、現代の価値観で断じて良いものなのかどうなのか等色々と個人的に抵抗感があり踏み込んで勉強できずにいました。特攻で死んでいった人たちを英雄視する一方で、特攻を命じた人たちの無能や愚かさ、サイコパシーを批判する声もあり、とはいえ一般には前者が前面に出され、「戦争は二度とやってはいけません」的な学校道徳的な合い言葉で思考停止させられているような感があり、実際のところはどうなのか?というのを知りたい一方で、触れがたく感じていたのです。というわけで本書です。

#はじめに

読む限り、現代風の個人主義、自由主義者でも、現代風の「命を大事に」という思想を当時の佐々木さんが持っていたわけではありませんでした。それにもかかわらず、佐々木さんが上官の命令を拒否しながら「不死身の特攻兵」たり得たのはなぜだったのか?は本書を読んでいただきたいのですが、自分としては以下の項目が重なったからなのかなと思います。

– 佐々木さんがお父さんから教わった命に対する考え方
– 「航空兵」としての実力、できるだけ沢山戦果を挙げるということに対する真摯さ
– 「空」という自由になれる時空間
– 理不尽に屈せず自分の権限の範囲内で協力してくれる上官や同僚

#「王様の首は革命と共に落ちるためにある」

本書の中では、特攻作戦に参加した現場の隊員達と、それを命じた指揮官は分けて考えなくてはならないだろうと主張されています。過剰に美化された特攻隊員のすがすがしい姿、といったものがよく前面に出されますが、実際のところはそうではなく、最後の最後まで死を受け入れるために激しく葛藤する、あるいは、死を命じる上官の理不尽さや有効性や合理性の乏しい作戦に命を捧げなければならない無念さをどうにかこうにか飲み込んで飛び立ったのだ、ということが書かれています。他方、特攻を命じた富永恭次といった指揮官や戦争指導部に対しては、戦後自らの汚名をごまかすために隠蔽工作を行ったことも含めて責任を追及し、原因を分析し、繰り返されないために考えねばならないと書いています。

特攻が途中から「志願」という名の強制に近いものになっていったくだり、上司は確かに明確に指示を出してはおらず、部下が自主的にやったように見せかけつつ、事実上指示を出している、というあたりは、現代日本の組織が起こす不祥事などでも散見される事例ですね。70年たっても、あれほどボロクソに負けまくっても結局のところは変わっていないのだなぁと。権限と責任そしてそれなりの待遇というものは三位一体のものであり、往々にして皆権限と待遇だけを得て、できるだけ責任を取りたがらないものなんでしょうが、やはり決定権を持っていた人に対する責任追及というものは何事につけきっちりやらねばならんのだなと思うのでした。そして、自分が決定権を持つことになったときには、つくづく「ダサい大人」になりたくないなぁと思うのでした。

#さいごに

『「空気」と「世間」』が山本七平の『「空気」の研究』と阿部謹也の『世間とは何か』を元にしているのに対して、本書は高木俊郎の『陸軍特別攻撃隊』が元になった本なのでしょう。絶版なのが実に惜しい。本書を読んで是非とも読んでみたくなりました。

個人主義や自由主義が全面的にいいのか?弊害はないのか?という話はあるんですが、集団の中でマイノリティとして抑圧されたり、居心地が悪い思いをしている人間にはやっぱり重要な思想のはずなんですよね。特に、集団が個人の自由や命を押しつぶそうとするあれこれが、現在でも散見される日本社会においては特に……。

 

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