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『昭和16年夏の敗戦』著:猪瀬直樹

太平洋戦争開戦間近の昭和16年7月、「総力戦研究会」という当時の若手エリート達が集められた場で、太平洋戦争の多角的なシミュレーションが行われた。その結果は「日本必敗」、さらにその過程も実際の敗戦の過程にほぼ一致した。後に首相となる東條英機も聴講していたと言われるシミュレーションの結果は、なぜ実際の政治判断に活かされなかったのか? 

というようなことを書いた一冊。総力戦研究会のシミュレーションは当時の大日本帝国が置かれていた国際状況に沿った情勢の設定が教官側から行われ、学生達はそれぞれの専門性に概ね沿った形で「大臣」を分担する「疑似内閣」を構成する形で情勢設定に対する国としての対処を考える、というものだったようである。読んでみると意外と総力戦研究会一色という感じでもなく、実際の開戦経緯の解説や、「独裁者」のイメージとはかけ離れた、天皇の忠臣としての東條英機の人物描写等が多く含まれる。

完全に歴史の後知恵だが、日中・太平洋戦争を現在から見ると「なんで勝てる見込みのない戦争をやったんや、当時の日本人は阿呆やったんか?」と思えてしまうわけだが、優秀な若い奴を集めてしがらみなく検討させれば、不都合だが合理的な判断は下せたのである。問題はその先、現実には合理的な判断は採用されず、トップの思い込みと部門間の力学、そして空気が物事を決めていき、結論に都合のいい皮算用がねつ造されさえする。で、勝てない戦争に負ける。

日露戦争の成功体験に目を曇らせて判断を誤り、日中・太平洋戦争の敗戦に至る道筋を、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」からバブル崩壊を経て30年以上にわたる平成の凋落に重ねてみる向きはあるが、自分にもどうしてもそう見えてしまう。結局日本の課題は、不都合だが合理的な根拠や事実を真摯に受け止めて、組織の力学を飛び越え、我田引水したがる利害関係者を黙らせ、(時には痛みを伴い、効果が出るまでに長い時間がかかる)本質的な対策を行えるか、そういうことができる組織を作れるか、ということにあるのだろうなぁ。歴史上2回目の失敗を繰り返そうとしているというのには、日本社会や日本文化が抱える本質的な瑕疵の存在があるような気がするのが非常に辛い(自分も恐らくその一端を担っているのであろうことも。)

戦争に関する本を沢山読んで研究しているわけではないが、そもそも当時の人たちが日中・太平洋戦争をどのように考えていたのか?については
加藤陽子「それでも日本人は戦争を選んだ」
当時の大本営の資源計画がいかに杜撰であったか、シーレーンの崩壊が実際にはどのように推移したかについては
大井篤「海上護衛戦」
が役に立った。本書を読んでみようという人の参考になると嬉しい。

  

『会計が動かす世界の歴史 なぜ「文字」より先に「簿記」が生まれたのか』著:Rootport

「会計」、「簿記(特に複式簿記)」という切り口で世界史を縦断する一冊。本書は人間の「損得勘定」「貸し借り」という根本的な行動原理を記録する仕組みとして、「簿記」というものに着目します。複式簿記を使った会計の仕組みが発展する歴史的事件をつまみながら、暗号通貨や人工知能といった現代〜近い将来までをこの切り口で袈裟斬りです。

複式簿記は15世紀のルネサンス期イタリアで現代的な形が確定して以来、何世紀も同じ様式のものが使われ続けているそうで、そもそも文字が発明される以前のメソポタミア文明において貸借を記録するための簿記のような仕組み(テーブルゲームに使われるようなトークンが使われていたらしい)からすると千年を優に超える期間、同様の仕組みが人類社会に遍在しつつけているようです。作者はこの理由を、人類が集団生活を行う上で「貸し借り」を覚えておくことが極めて重要であり、簿記はそれを記録する仕組みとして本質的に人間が必要とするものだからではないか?としています。人間の生き物としての本性に、人類社会に共通するなにがしかの存在理由を求めるのはジョゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』のような論の広げ方ですね。個人的にこういう世界に対する視野が開ける感じの本は大好物なので、最初から最後まで徹頭徹尾読んでて面白くて仕方がありませんでした。

資料を掘り起こし、仮説を立てて戦わせ、歴史というジグソーパズルのピースを作るというよりは、先人の研究成果をある切り口で組み合わせ、1枚の見甲斐のある絵を組み立てるタイプの歴史の本。ダイヤモンド氏は歴史のピース作りもやっていたのかもしれませんが、タイプとしてはジャレド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』と似たような本に感じました。

複式簿記の勉強のモチベーションを喚起する意味でも、歴史の一大スペクタクルとしても超おすすめの一冊です。複式簿記の本は一度読んであまりに問題集っぽすぎてダメだったんですが、「会計」の本を読めば良いのだと言うことがよく分かりました(そして本を買いました。)

『ネオナチの少女』著:ハイディ・ベネケンシュタイン 訳:平野卿子

正統派のナチズムを継承している家庭に生まれた女性が、所謂ネオナチのメンバーとして青春時代を送りつつも、その中で後に夫となる男性と出会い、そして彼の子どもを妊娠したことを大きな契機としてネオナチを脱退するまでを描いた自伝。

ネオナチというとビジュアルくらいしか思いつかないのだが、どういう人たちなのかと言うことについてもよく分かった一冊だった。大抵の人間は人生があまり上手くいっていないチンピラで、自分の劣等感をごまかすために懐古的で排外的なイデオロギーに傾倒していることにして暴れ回っているということのようで、日本にも似たような人はいるよなぁなどと思ったりした。

彼女がネオナチを脱退できたのは、もちろん本書に書いてあるように、夫となる男性との出会いや妊娠という契機もあるだろうが、詰まるところ彼女自身のが生まれ持った人間性や知性、特に自分の体験を客観的に見るメタ認知能力に、ネオナチの思想が堪えられなかったということなのだろうなと思う。正当なナチズムを曲がりなりにも実践しようとしている家庭に生まれてしまったことも、逆にネオナチとして活動している人々の大言壮語や言行不一致に気づく原因になっていたようにも読めた。

本書の中で指摘されているようにネオナチの思想は非常に偏向していると思うし、ネオナチのメンバーもろくでなしばかりという彼女の指摘も、本書の中の描写を見る限りは頷ける。しかし、ネオナチの思想に染まり、排外主義的な活動をしている人たちの現状は、100%彼らの責任に帰されるものなのか、というのは、最近読んだ本的にはちょっと思ったりする。彼らの中には、公的なサポートを受けられない程度に色々なハンディを負った人がいて、そんな彼らに手を差し伸べたのは極右思想だけだったりしなかったのだろうか、などと。

『サカナとヤクザ 暴力団の巨大資金源「密漁」ビジネスを追う 著:鈴木智彦

密漁に暴力団が関係している、というタイトルから想像できる以上の中身がある本だった。昔はヤクザとカタギの漁師の差が曖昧だったこと、カタギの漁師も生活のために密漁に手を染めることがあり、物流の上流から下流まで、「分かってやってる」部分があること。暴力団(というかヤクザ)の上意下達、滅私奉公な道徳が戦中には称揚されすらしたこと。北方領土沿岸での密漁とソ連の諜報活動等々、目から鱗が落ちまくりである(サカナだけに)。

「おまかせ」の「時価」という消費者にとって入りにくい寿司屋は、漁業という産業の性質と、寿司屋というネタの品質に出すものの品質が大きく左右される料理であるという点を考慮すると、商売の方法として合理的である、ということも語られている。結局、魚が安く安定的に手に入るということが、日本が海に囲まれていることや冷凍技術の発達を差し引いても、何かしらの無理の上に成り立っているのかもしれないという想像力が必要なのかもしれない。結局平成の30年でなんでも「安く」、「便利に」を追求して、消費者がそれに馴らされてしまったゆえの弊害という感じがする(いよいよ日本中あちこちで顕在化しつつあることであるが)。

正直魚が食べにくくなる本ではあるが、魚を口にする消費者として、最低限持たなければならない知識だろう。非常に評判が良い本だったとということだが、確かにとてもいい本だった。

『矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る』著:御田寺 圭

帯に「気鋭の論客」とあるが、最近はインターネット上の文章投稿サービスNoteで、月額課金Webマガジンでブイブイ言わせている方の初著書。いわゆる「反ポリコレ」的な内容の文章を書く人であれこれ揶揄されたりすることもあるようだが、個人的にはむしろ優しい善人なのではないかと思っていたりする(単に私がすでに著者の思想に薫陶を受けてしまっている、あるいは著者と思想や思考回路が近い、ということかもしれないが)。

肝心の本の中身だが、「矛盾」とタイトルにあるように、一般に良いこととされる概念や言葉の裏にある不都合な事柄を実に意地悪く指摘、暴露する。「頑張る人が報われる社会」は恐らく「失敗した人にさらに石を投げる社会」であり、「付き合う相手を自由に選べる社会」や「ハラスメントを全く受けずに済む社会」は「どうしても他人から選ばれない人が孤独になる社会」や「他人との関わりが希薄な社会」である。「人の命に貴賤はない」が、「障碍者施設や児童養護施設は社会的階層が高い人々が住む地域にふさわしくないと反対運動が起きる」のである。とまぁ詳しくは本書を読んでいただきたいが、よくもまぁこんな鬱々とするような話題ばかりかき集めてきたなといいたくなる一冊である。確かに非常に偏ったものの見方、とらえ方ではあるのだが、色々と根拠となるデータが示されているように、全くの妄想というわけでもない。

排外主義、極右の台頭、非婚化といった社会の土台が崩れるような現象が世界中であれこれ起きているが、その根本にあるのは結局こういう我々の社会が推し進めてきたあれこれの「裏面」なのかもしれない。「自由」や「正義」「多様性」といったことを良いことだと信じる人ほど(実際の所我々はそれらの恩恵をなにがしかは受けているわけで)、こういう「毒」を一服飲んでおいた方が狂わずに済むかもしれない。

『セックスボランティア』著:河合香織

性というのは非常に複雑で繊細なものであって、コミュニケーション、承認、性欲の充足、排泄欲求のようなものなど、各個人にとっても、社会的にも、複数の意味が重なり合っている。障碍者にだって、人間である以上性欲がある。そんな当たり前だがデリケートな問題を、誠実に綴ったルポルタージュ。

日本だと、養護学校の性教育に対して国会議員が文句をつけたり(そもそも健常者に対してもきちんとした性教育が行われているのかという問題もあるけど)、特に障碍者の性というのはタブーになっているところがある。本書では、売春を利用したり、恋人や配偶者がいたり、いわゆるセフレがいたり、色々な形で性と向き合っている障碍者が出てくる。取り上げられている事例は日本とオランダで、オランダというと公娼制度があったり、ソフトドラッグが合法的に利用できたりとオープンで開明的なイメージがあり、障碍者の射精の介助をしてくれるセックスボランティアの制度も実際にあるそうだ。しかし、本書によるとオランダにおいても、支援する人たちも支援される人たちも、やはり悩みながら向き合っており、性というのはどこまでいっても正解のない世界なんだと思わされる。

今現在健常で、かつ障碍者と日常接することがなくても、自分や家族や親しい友人が、明日交通事故で障碍者になるかもしれない、生まれてくる自分の子どもに障碍があるかもしれない。結局自分のことにならないと本当のところは分からないものだとは思うが、それでも本書は、なかなか見えないけれど、確かにそこにあるものに対する想像力を喚起してくれる。

『女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと』著:西原理恵子

こう言っちゃなんですが、西原理恵子の「この世で一番大事なカネの話」は非常に影響を受けた一冊で、個人的には何度読み返しても含蓄のある本だと思っています。元々出ていた理論社が倒産しちゃって入手困難になっていたんですが、角川で復刊しましたので是非どうぞ。本書は主に「女性」にフォーカスして自身の経験から来る人生訓を語っている本です。基本的に女性に対して「(主に経済的な)自立」と「自由」を説きます。

本書では行けるところまで学歴をつけろ、資格を取れ、王子様を待つな、パートナーを憎むくらいなら逃げろ、と口を酸っぱくして言います。経済的に自立できない健常者の男性が他人に救済される可能性はまぁないんですが、女性はパートナーの成功に相乗りすることがままある代わりに、自由や自立を実現するための努力を親や周りから許されない場合もあるわけで、だからこそ西原氏はこういう本を書くわけですよね。

私も、(社会的な自立が可能な)娘がいたらこの本を読ませたいと思います。自由は残酷ですけど、それでも人生を人任せにするよりも、自分の足で歩いて行って欲しいと思うからです。というわけで、女性には特にオススメ、男性にも意外とオススメです。

 

『バッタを倒しにアフリカへ』 前野・ウルド・浩太郎

失礼ながら存じ上げなかったが、有名なバッタ研究者の方だそうで、本書を読んですっかりファンになってしまった。

今時の食うに困っていたポスドクのお兄さんが、サバクトビバッタというバッタの蝗害に苦しむアフリカ モーリタニアに突撃し、様々なトラブルに遭いつつも、色々な人の助けを借りながら職を確保するサクセスストーリー。

研究対象であるバッタに対する愛情、情熱、食い詰めていたとはいえ、言葉も通じない、文化も大きく異なる異国に飛び込む勇気とバイタリティ、不安な状況でも自分を信じるメンタルの強さ(海外学振の任期の2年以上、大群が発生するのを待っていたというのだから肝の太さがすごい)、成功に必要なモノがあるとすると正直言ってあとはチャンスだけという感じで、たしかにそれをつかんでいるのである。研究所のババ所長、ランドクルーザーを縦横無尽に運転する相棒のティジャニ、いずれもキャラが濃いし、前野氏を「ドクター」と敬意を込めて呼び、「お前ならやれるはずだ」と信じて励ましてくれる。前野氏は実に同僚に恵まれている。

基本的に読んでいて楽しいのだが、個人的には昨今の日本のアカデミアのしょっぱさやら、厳しさやらも垣間見えて古傷が多少疼きもする。

ご本人が本書の中で、さる編集者の方に文章の薫陶を受けたと語っているが、たしかに書きぶりが大変魅力的で、内容も上記のように本当に面白い(個人的に「オタク」「マニア」の語りを聞くのが好きなのでなおさら)ので、人に勧めたくなる良書である。

『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』著:一ノ瀬俊也

日本陸軍というと、人を人と思わぬ自殺攻撃一辺倒という印象があったが、それが半分あたりで半分外れということが分かる本。日本側の資料は今の公文書と同じくろくに残っていないので、アメリカの資料(Intelligence Bulletin)を元に書かれている。

さて、日本陸軍の歩兵部隊が機材に勝る米軍に対して取った戦術がどうだったのかというと、第一に思い浮かぶイメージというと三八式歩兵銃に銃剣つけて、大声上げて無謀な自殺突撃を行う、というのがあるが、本書によるとさにあらず、白兵戦は忌避していたようで、機関銃を使ってみたり、待ち伏せ作戦をしてみたり、狙撃兵を有効に使ったり、戦場によっては組織的な撤退をやってみたりと色々試みてはいたようだ。硫黄島作戦の持久作戦は栗林中将の個人的な創意工夫かと思いきや、その前の東南アジアでの戦いから色々試みられていたというのは目から鱗。やはり物事を過度に単純化して捕らえてはいけないか。とはいえ、対戦車兵器の開発は不足していたし、肉弾戦術は常用していたし、まぁ結局のところ負けるべくして負ける戦に相当悪い負け方をしたというのは大筋としては変わらないようである。また、1944年から45年頃になって陸軍が良く戦いすぎたが故に、「戦争を早期に終わらせてアメリカ兵の犠牲を減らす」という原爆投下の大義名分を与えてしまったのは皮肉に思える(これもそれだけの理由ではなかっただろうが。)

戦傷者へのひどい扱いと対照的な死者への丁重な弔い、日本人の性質を利用した捕虜からの情報収集等、「全然ダメじゃねぇか!」と国際的にも有名で、ともすれば現代の我々にも見られるような、気が滅入るような日本人のアレな所もバッチリである。

というわけで、巷間いわれる日本陸軍のイメージをいくらか覆してくれる一冊ですので、私のように余り詳しくない人は読んでみるといいのではないだろうか?