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『老人喰い ーー高齢者を狙う詐欺の正体』 著:鈴木大介

「オレオレ詐欺」という言葉が広く知れ渡ってから何年経ったか記憶にないが、それは一向になくなる気配を見せず、一日に何百、何千万円、年間に何百億円ものお金が動く高齢者を狙った詐欺、その実態や原因に迫ったルポルタージュ。著者の鈴木大介氏は、貧困家庭などに生まれ育ち、表の社会に受容されないが故に反社会勢力などに取り込まれていく少年達を主に取材するジャーナリストである。

本書によれば、高齢者詐欺というものは通常のビジネスと同様かそれ以上に高度にシステム化、分業化されているということである。高齢者の名簿を作り、その名簿に様々な付加情報を加えていく名簿屋、連絡用の携帯電話番号(盗品)や転売された銀行口座など必要なリソースを供給する業者、被害者と接してお金を回収する出し子や受け子と呼ばれる人を手配する人、等々、高齢者詐欺というのは一種の分業制ビジネス化しているのだ。本書の中では物語形式で描かれているが、特にそれぞれの案件でリーダー役をやる人に関しては、適正がある者を選抜し、育成する高度なシステムが確立していて、そこで選抜される人物というのは、機会にさえ恵まれていれば優秀なビジネスマンだったり、あるいはベンチャー企業の社長になって何人もの社員を養うことさえできたのではないかという胆力や知力、向上心の持ち主であるということである。

ではなぜそんな優秀な人物が、犯罪に手を染めるのか?端的に言ってしまえば社会の閉塞感と、世代間格差である。大学の学歴を要求する職業や会社は多い割に、大学の学費は値上がりしていて大学に通えない、通えても奨学金という名の莫大な借金を抱えざるをえず、そうまでして入った会社でまともに働いても、社会保険料や健康保険、住民税などでごっそり持って行かれる。自分たちがなかなか明るい展望の見えない人生を送る一方で町中に眼をやると、立派な家に住み、自分たちが納めた年金で悠々と暮らしているように見える高齢者が視界に入る。社会保障制度、教育制度等々それぞれは社会的に正しいとされているシステムだが、それによって自分たちは人生の希望を奪われている、ならば非合法な手段であれ、自分たちから希望を奪った連中から「取り戻す」のだ……。

そこそこの待遇で働いていて守るものがそれなりにある人であっても、2020年代の現役世代に、毎月の給与明細を見て支給額と手取額の落差に肩を落としてことがない人はいないだろう。被害者は気の毒だし、自分や自分の身内が被害にあえば憤り、犯人に厳罰を求めるだろうことは確実であるが、彼らが自己を正当化する理屈は一応通っているように自分には思える。

最近、犯罪の「責任」と「原因」ということについてよく考える。犯罪を犯した人間に一義的にその責任があることは確かなのだが、その犯罪を犯すに至った原因は、その人にだけ帰されるものでは必ずしもないのではないかということである。犯罪者の責任をいくら追及しても、原因をなんとかしない限り同種の犯罪はなくならない。まして高齢者詐欺のようにシステム化されたものについては、そこに新しい若者が惹きつけられる社会状況が存在する限り、絶対になくならないだろうと思う。

この記事を執筆した時点で、日本各地で起きている一連の強盗傷害事件があるが、マスコミの報道を見る限り、恐らく本書に書かれていることと同様のシステムが存在しているのではないかということが想像される。おそらく、この手の事件は増えこそすれ、なくならないのではないだろうか?

『限界ニュータウン 荒廃する超郊外の分譲地』 著:吉川祐介

千葉県の北東部の、公共交通機関のネットワークから遠く離れた地域には、1970年代頃から開発された分譲地がたくさんあるという。その多くには分譲された区画数を大きく下回る住宅が建っていて大半は更地や原野になっているそうだ。

空き家問題や限界集落など、人口が絶賛減少中&都市圏への極端な人口集中が進む日本には不動産に絡む様々な問題が存在する。本書はその中でも都市圏の超郊外に存在するある種の「分譲地」が抱える問題を取り上げたものである。本書ではタイトルにある限界ニュータウンとか、限界分譲地とかいった単語で呼ばれるこの「分譲地」がどういった経緯で生み出され、どういった現状にあり、どのような問題を抱えているのかを丁寧な実地調査と精緻な分析に基づいて紹介し、一定の解決策を見いだす良書である。詳しくは本書に譲るが、土地の値段が急上昇していた時代に原野商法と似て非なる経緯で生まれ、バブル崩壊後の地価の急落で不良債権化して流動性が低下し、今に至るというもののようである。まさに昭和平成の負の遺産という感じ。

著者はYouTubeやブログもやっており、僕がこの著者の書く文章や語り口が好きなのは、根っこの部分では当時の土地バブルに踊らされた人々のことを馬鹿にしていないことである。前時代的で、現在からすると奇妙に見える社会的な事象や遺物には、その時代なりの合理性や経緯というものが存在するはずで、著者の書く文章やYouTubeでの語り口は、それに対する想像力が感じられるのだ。是非この本やYouTubeが当たって、奥さんとお二人の生活が少し華やかなものになると良いなぁと思っている(実際当たって複数回重版しているようだが、YouTubeの方が儲かるらしい。文筆業は結構厳しい)。

本書を読んで思ったのだが、資産や不動産、会社などの法人をキチンと精算する人というのはそれだけで立派である。

『虜人日記』著:小松真一

1944年からアルコール生産のためにマレーシアに赴いた著者が戦地で綴った日記で、後退する戦線の後ろで空襲におびえながら各地のアルコール工場を巡って仕事をする話、いよいよ現地の日本軍が戦争の能力を喪失し、ジャングルの中に逃げ込んで半死半生で1945年8月14日の敗戦を迎えるまでの話。戦後米軍の捕虜となり、捕虜収容所の中で生活する中で見た人間模様、の3つから構成されている。復員の際に戦友の骨壺に入れて持ち帰られたそうで、著者が亡くなるまで銀行の貸金庫に保管され、ご遺族が社会的意義を感じて活字化、出版されたという経緯を持つそうである。

全体的に読みやすく、特に334ページに記載されている「日本の敗因」が非常に的確。何せ当時の実感で、第二次世界大戦の太平洋戦線で実際に負けた人が色々と考えたことなわけである。限りなく現場に近い体験から人間としての極限状態(なにせ人肉食が行われるくらい人倫が崩壊していた)においても失われなかった明晰な知性で見いだした敗因なわけで、これ以上に的確な物を探すのは難しいだろう。

極めて残念なことは、平均的な日本人や日本人の作る組織に、本書に示されているような弱点が脈々と生き続けているということだろう。日本人のエートス(最近覚えた言葉)と言ってしまえば簡単でしかし悲しいが、まずは自分と自分の所属する組織から、少しでも弱点を克服できるように頑張っていくことくらいしかできないだろう。一生勉強である。


『人間使い捨て国家』著:明石順平

労働基準法を無視して長時間働かせたり、払うべき給料を払わなかったりする所謂「ブラック企業」に対する裁判を多数担当している弁護士が、日本国の労働関係の法制度の問題点を指摘、批判している本。経団連や竹中平蔵氏を筆頭とする人材派遣業界と政界の癒着に日本の劣悪な労働環境の原因を見いだし、その改善のためのポイントや労働者個人個人に出来る対策を取り上げている。

「人間使い捨て」という剣呑なタイトルだが、本書では企業の邪悪さだけでなく、国家ぐるみで人間を使い潰すような法制度になっているということが指摘されている。最近フランチャイズオーナーと本社の間のトラブルがニュースにもなり始めているコンビニフランチャイズ、年俸制、固定残業代、高度プロフェッショナル制度、外国人技能実習生等々、そもそも日本の労働関係法制の中に、「ブラック企業」を跳梁跋扈させるような抜け穴(使用者側に労働時間の記録義務がなかったり、労働基準法違反の罰則が他の刑事罰に比べても甘かったり、そもそも労働基準監督官が諸外国に比べて少なかったり等々)が設定されている、というのが著者の指摘である。確かに、著作権法違反より過労死させた使用者の罰則が軽いというのはどうにもおかしい。

2019年に日本は移民解禁をしたわけだが、そもそも待遇が悪すぎて外国人から選ばれない国になっていたり、(21世紀の国力や経済を左右する重要なセクターである)IT系だと優秀な人たちから外資に引き抜かれていっていたり、「人間使い捨て」ではいよいよ上手くいかなくなる兆候が見え始めており、国にも経営者にも、労働者にむち打つ以外の別の冴えたやり方を考え出してもらいたいもんである。

この国で労働者として働くなら、とにかく一読しておいて損はない一冊である。5年後10年後にはこの本に書かれている問題点が1つでも良いので改善されていることを願ってやまない。

『歴史とはなにか』著:岡田英弘

どうやら異端らしい歴史家の一冊。人類史に「歴史」と呼ばれるものは2種類しか存在したことがなく、地中海世界の歴史と中国の歴史ということだそうである。地中海世界の歴史はヘロドトスのそれであって、一定のエリア(昔はヨーロッパ)における国家の興亡を書いたもので、現在我々が学校で教えられる歴史はこっちの書き方である。中国の歴史は、司馬遷が書き始めた皇帝の「正統」の概念を表すものであって、フォーマットが強固に決まっていてどの王朝の歴史も同じような書き方になるせいで本当のところがどうだったのかは判別が難しいらしい。両者が出会ったのはモンゴル帝国の時代で、その時初めて「世界史」というものが誕生したということのようだ。

日本の歴史は日本書紀に始まるもので、古事記は「偽書(成立年代が偽られている)」というのが著者の説。日本書紀は天武天皇が、中国の王朝に対して日本の王朝が「正統」であることを示すために書かせたもので、万世一系といわれる日本の天皇家を中心とする歴史はこの時代に始まった(神武天皇とかどうとかは歴史というより神話上の存在)ということのようだ。

いわゆる歴史認識の問題を論じていたり、現代と古代の境界を国民国家の成立に置いて中世という区分は適当ではないと書いていたり、学校で教えられたこととは違うことがあれこれ書かれており、それも筋が通っている物だから面白い。国民国家という仕組みに限界が来ていると本書には書かれているが、その後国連やEU、NATOといった超国家的な組織の方にこそガタが来ている感じで、この本を書いた当時の著者が今の世界情勢を見たときにどのようなことを考えるのか、見て見たかったような気がする。

神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈 著:安丸 良夫

日本人の信仰の基底は何か?という問いに、明治維新の際の廃仏毀釈の経緯を整理することで答えようとする一冊。改元、新天皇陛下即位の儀式等で国家神道が前面に出ている今こそ読むべき本と言っていいのではないだろうか?

名前くらいは聞いたことがある廃仏毀釈であるが、始めたのは本居宣長的な「国学者」たちであった。寺請け制を以て統治機構に組み込まれていた寺社から政治的影響力を奪回したい国学者と欧米に負けない統一国家を作るために国民の意識の統合を狙う明治新政府が結託というか、お互いを利用し合う形で始めたものだったようで。とはいえすべてがトップダウンにエレガントに進んだというよりは、虎の威を借る狐的にそれぞれの地域で勝手に寺社を破壊したり、仏像を捨てて鏡を置いたりといったことを行った人もいたようだ。あれこれあって「信教の自由」を採用してキリスト教も解禁され、国家神道のあれこれは明らかに宗教的な儀式であるにも関わらず、微妙に宗教的なものではない的な方便(現行憲法下における自衛隊に通ずる物がある)で戦後日本においても国家事業として執り行われている、ということのようだ。

日本人は今でこそ無宗教と言われたりするが、現在神社とされているものが昔はお寺だったり、国家神道の神々の体系の外にいる土着の神様を祀っていたり、本当に「混沌とした多神教」だったようである。古いおうちにある神棚や、田舎の道ばたにあるお地蔵さんが、大きな神社の神様と同等の存在で、ほんの200年くらい前までの日本には八百万の国と言われるにふさわしい、十重二十重の信仰とおまじないのレイヤーが被さっていたようである。そう思うと近所の神社の縁起を調べてみたくなる。

というわけで、一昔前の日本は今とは微妙に異なる宗教世界であったらしい、という想像力を養う上で、良い一冊。

『イスラム教の論理』著:飯山陽

正義の対局は悪ではなく、別の正義だ、とは現代のフィクションでは常識のような考え方ですが、本書に書かれていることは現代日本から見て、まさにそれを体現する実在の人々に関する話と見ていいでしょう。日本人の宗教観からするとかなりかけ離れた人たちで、自分の側に引き寄せて共感したり、理解した気になるのは危険かもしれないよ、というのは私としては納得感のある話でした。

イスラム原理主義とはよく言ったもので、非信者に対する強烈な差別意識と攻撃性を示すイスラム教徒のコーラン解釈もイスラム教の「正統な」解釈の一つで、それ故に世俗派、穏健派と呼ばれる人たちも否定できないそうです。事実、穏健派や世俗派とされているイスラム学者、指導者たちも否定できていない、という例が示されています。インターネットやSNS経由で原理主義の過激派に勧誘された人たちが出る理由が、そもそもインターネットとイスラム教の相性が良い(物理的な距離を超えて過激思想と出会い、「目覚めて」しまう)という事もあるようです。

イスラム教に関して学ぶことは、歴史を学ぶことや、フィクションを読むことに近いのかもしれないと思いました。つまり、我々の常識や正義と異なる信念を持つ相手、場合によっては相手に憎しみを抱いたり、共感できなかったり、愚かに見えたりする自分の主観をできるだけ排して、「相手なりの合理性」を理解しようとするというか。まぁ、そんな感じです。問題はイスラム原理主義者は、現代に実在する人間の集団であり、こちらに争う気がなくてもジハードを仕掛けてくる場合があるということで、そこは流石に我々の正義に基づいて自衛せねばとあかんという話なんでしょうか……。それをやってしまうとアメリカや欧州のように泥沼に引き込まれるわけで、どうすれば良いんでしょうかね……。

本書を読むと以下のツイートに出てくる「現地の人」の論理がなんとなく分かるかもしれません。

https://twitter.com/hally_sen/status/1193831850961059840?s=20

『ヒトラーの正体』著:舛添要一

舛添要一さんというと、都知事をやっていた印象しかないが、実はもともと世界史の学者で、ヒトラーに関する書籍もいろいろ読んだそうだ。ということで、本書は長年の読書や研究の成果を生かし、ヒトラーに関して来歴や様々な側面を俯瞰的に書いたヒトラーの入門書である。

代替内容は2つに分かれて、前半がヒトラーの半生、後半がヒトラーの「反ユダヤ主義」、「プロパガンダ」、そして「ヒトラーに従った大衆心理」という3つのトピックについて語る感じである。前半部だとヒトラーがワイマール憲法下で合法的に独裁体制を構築する過程がかなり詳細に書かれており、後半の3つに先立つ1つめのトピックといえるかもしれない。ホロコーストに至る反ユダヤ主義の流れはヨーロッパに長年根を張っていたもので、ヒトラー自身もウィーンで反ユダヤ思想家の影響を受けて自身の思想を醸成したというのが本書の説である。技術の発達やなんやかやで、長年醸成された反ユダヤ主義が行くところまで行ってしまったのがホロコースト、と解釈することも出来るようだ。

舛添さんとしては、トランプ大統領を代表として2019年現在の世相にヒトラー台頭時の世相を重ねてみているようで、それが本書をものした理由の一つであるようだ。ヒトラーが独裁体制を構築するうえで鍵になったのがワイマール憲法の48条の緊急事態条項で、その辺を考えると、昨今日本国憲法の改憲を希望している代議士の人たちがいの一番にそこに手を付けようとしているのはどうもまずいような予感がする。昨今東アジアの地政学的情勢が大きく動こうとしている中、戦争に巻き込まれた際のことを考えておく必要はあると思うわけだが、改憲ではなく現行憲法下における非常事態への対策法規でなんとかならないものなのだろうか?改憲するならむしろ勤労の義務を削除し、人権保障の観点をより強める方向で改憲していただきたいもんである。

目からうろこが落ちる、みたいな体験はなかったが、全体を俯瞰する本で参考文献も豊富なため、ヒトラーに興味は出たがどれから手を付ければ、と思っている際には良い本なのではないだろうか?

『昭和史 1926>>1945』著:半藤一利

個人的に歴史、特に日本の近代史、戦前史を勉強し始めたのはここ5年くらいのものだが、最初に読んでおけば良かったと思った。本書は戦前生まれの歴史の語り部的な著者が、長年の文献研究と当事者への聞き取りの結果を総合して、15回の講義としたものの口述筆記である。年代としては1926年から1945年。いわゆる戦前というやつである。

陸軍や海軍それぞれを単独に悪玉にするわけでもなく、とはいえ国民の傲慢や熱狂、メディアの扇動も取り扱い、誰かを悪者にして一面的に捉えるだけでは見えてこない「なぜあんなアホな戦争を始めたのか?」そのうえで「なんであんなアホの積み増しをやってメタクソになるまでやったのか?」を解き明かそうとしている。

とにかく昭和の元年から昭和20年の太平洋戦争終結までを一気通貫に取り扱っているので、個別の戦史や、たとえば2・26事件のような大イベントについて掘り下げる前に読んでおくべきだったと思った。ただ、近代史はとにかく登場人物が多く、エピソードもかなり具体的に残っているので、最初に興味を持ったトピックや人物を中心にひっかかるフックをいくつか作っておいて、本書でそれらの間をつなげる、みたいな読み方は結果的に良かったのかもしれない。

恐らく2019年現在は歴史の変わり目で、ついに東アジアにもきな臭い臭いが漂い始めている訳だが、そんな中で日本が国としての舵取りを間違えないように、主権者として歴史の勉強はしておかないといけないだろう。そして、本書はその勉強のどこかで読んで損のない一冊だと思った。

『人はなぜ物語を求めるのか?』著:千野帽子

「人間は物語る動物である」ということで、人間が一般に持っている「人生に起きる様々な出来事の間に物語を紡いでしまう」という思考の癖を、心理学の研究や哲学の考察を広く紹介しながら解き明かし、時に人を苦しめるその癖から自由になるヒントを与えてくれる本。

本書に曰く、ストーリーを半ば自動的に紡いでしまうという人間の癖は、自然科学が代表ではあるが過去に学んで未来を予測し、生存に有利な能力であったのと同時に、生育歴から来る認知の傾向が本人を苦しめもする。「公正世界観念」といったように思考の癖に名前を付けて意識することで、逆にそこから自由になってこころの安寧を得ることも出来るかもしれない、という話である。要するに物事の認識の枠組みをハックしようとする試みに思えた。

結構宗教家の言葉が引用されていたりするのだが、言葉によって人間の認知の癖をどうこうするのはなるほど古来宗教の役割だったのだなぁと人間の歴史に思いを馳せたりもした(僕の知る限り仏教の一部は結構そういう方向性だよなと思ったり)。

自分の認知の枠組みをいじるのには時間がかかるだろうが、少なくとも人間には特定の思考の癖があるのだ、という事を知ることが出来るという意味で、なにか人生に対するスタンスが変わるかもしれない一冊。