投稿者「uterium」のアーカイブ

『紫色のクオリア』著:うえお久光 挿画:綱島志朗

なぜか人間がロボットに見える少女毬井(まりい)ゆかり、彼女からすると究極の「汎」用型ロボットに見えるボーイッシュな少女波濤学(はとうまなぶ)。この2人の少女と、ゆかりの幼なじみの天条七美(てんじょうななみ)、ジョウントという組織から来たという天才少女アリス・フォイル。登場人物はこの4人で、この4人が仲良くなるまでの気の遠くなるような長い時間の話……読者が観測する作中の時間では。そう、日本のオタクカルチャーにはよくある話ですが、出てくるのが女の子というだけで、本作はSFの白眉です。それも、銀河英雄伝説のような宇宙船がドンパチやらないタイプの。仕掛けがよくできているだけでなく、物語としてのペース配分、そして最後の種明かしにいたるまで、奇跡的なバランスで名作として成立しています。こればっかりは読めという感じ。

某白饅頭の人が傑作と言っていた一作。名前は聞いたことがあったものの、著者がうえお久光先生で驚きました。オタクの履歴書では書いてないんですが、ほぼ最初に読んだライトノベルは、うえお久光先生の『悪魔のミカタ』でした(しかも2巻)。あと、綱島志朗さんと言えばなぜか女の子がレイプされそうになるロボットマンガ、『ジンキ・エクステンド』の作者です。これも大学時代に読んでました。ということで、本作を手に取り、はからずも昔を懐かしむことになりました。

SFライトノベルの、そして単巻で完結するライトノベルとしてとてもよくできていて、とても面白い作品。超オススメです。本作の元ネタとなる、同じような仕掛けをあつかったいくつか著名なSF作品があるそうなのですが、蒙昧なのでまだ読んだことがないのです。近いうちに読んでみようと思います。
 

『奴隷のしつけ方』 著:マルクス・シドニウス・ファルクス、ジェリー・トナー 訳:橘明美

某国民的アイドルグループの晒し首会見以来、一時的に売り上げが上がったという一冊。ケンブリッジ大学でローマ史を研究するトナー教授が、古代ローマ時代のローマ貴族、マルクス・シドニウス・ファルクスの口を借りてローマ時代の奴隷の取り扱いについて語る一冊。奴隷なんて建前の上では存在しないことになっている現代日本ではありますが、要するに経営者が従業員のマネジメントをどうするかという意味で、通用する本であると考えられているようです。どちらかというと劣悪な労働環境を自虐する「使われる」立場からの「面白い」という声が多いように思いますが。

奴隷というと、三角貿易でアメリカの綿花農場で働かされる黒人奴隷(腱が切れるくらいの過酷な労働を課された)というイメージが強かったのですが、知的な仕事に従事する奴隷もいたそうです。また、食事に関しては、きちんと与えなければいけないと考えられていたらしく、体罰も、必要ではあるがやり過ぎは禁物ということのようでした。とはいえ人道的な理由というよりは、「資産」の生産効率を最大化するための功利的な考えに基づくものであったようです。また、家族を持つことを許されることもあり、主人が死んだり、特別な功績を挙げたりすると解放され、参政権はないが誰かの所有物ではないという「解放奴隷」の立場を手に入れることができたりしたようです。とはいえ、ローマ帝国が征服した各地から連れてこられ、誰かの所有物として扱われるのは気持ちいいものではなかったことでしょう。

さて、現代の日本に目を向けると、会社において、結婚が推奨され(もちろん本人にとっても幸福なものになる可能性はありますが)、家を買ったとたんに海外、僻地に転勤させられるなんて話があったりしますね。そして何より、我が国日本には、悪名高い「外国人実習生制度」なんて物もあったりします。まぁ2000年経っても、洋の東西を違えても、人間は大して変わらないのかもしれませんね。

これを読むあなたは「使う側」なのか「使われる側」なのかは分かりませんが、「使う側」は従業員が上げる「アガリ」を最大化するために、「使われる側」はそんな「使う側」の意図を見抜いて自由を手に入れる、あるいは守るために、どちらにしても役に立つ一冊だと思います。オススメです。

『原発と大津波 警告を葬った人々』著:添田孝史

4大公害病なんて言葉があったけれど、それに勝るとも劣らない、企業による深刻な環境汚染事件が「なぜ」起きたのかを検証する一冊。もちろん直接的な原因は東日本大震災を原因とする津波だった訳だが、それを事故に結びつける様々な不作為、無責任があった。事故の16年前の阪神・淡路大震災以来、原発の安全性が疑問視され、様々な研究も進み、福島第一原発に対して津波に対する安全対策を取るよう様々な勧告が為されたりしたにもかかわらず、東京電力は無視し続けた。その経緯がどんなものであったのか、著者は緻密な取材を行い、今も残る問題を指摘する。

肝心なところは、最後の章で指摘される、事故を起こした国や電力業界、メディアの体質が、事故前とあまり変わっていないことだろう。ヒステリックで非科学的な「反原発派」のキ(ry、もとい攻撃的な心配には辟易するが、本書を読んで原発を日本で引き続き運用するべしと思うのは難しいだろうと思う。私もそう思った。とはいえ、反対もしきれない。石油や石炭火力発電所に比べて燃料1グラム当たりに生み出せるエネルギーが大きく、燃料の貯蔵が容易なためエネルギー安全保障上の意義が大きいというのも理解はできるし、水、食料と並んで、途絶えると人命に関わるのがエネルギーである。税金を食いつぶす穀潰しであるもんじゅはさっさと廃炉にしろと思うが、長寿命な放射性廃棄物の少ない高速炉の研究の意義は認める。日本に原発を入れることを決めた人の決断にはこういった善意も幾ばくかあったのではないかと思いたいのだ。

結局、ある原子炉はしょうがないので安全対策を講じつつ使いダメなものはさっさと廃炉にして、代替案を用意してそっちに軸足を移すという「原子力はつなぎのエネルギー」というよくある意見に行き着いてしまう。原発の安全に関わる体質がほとんど変わっていないこと、というか、電力会社の利益と安全対策が相反する時点で、そこにいろいろな人の生活がガッチリ食い込んでしまっている時点で本質的な改善は不可能ではとも思うわけで、どうすれば良いのかなぁとウジウジするのであった。

とまぁ、エネルギーに夢がない(水力は環境を破壊する、風力太陽光はよっぽどコストをかけないと今と同じような電気の使い方を許さない、火力もCO2を出す……、本書の書くとおり原子力はアレ)ということを鑑みても、あまり読んでいて楽しい本ではない。しかし、エネルギー使ってなにがしかをしている存在として、考え続けるということは市民の義務ではなかろうかと思うので、本書は非常にオススメできる本である。少なくとも怪しい疑似科学の本やらヒステリックに危機を煽る本やらを読むより一万倍、この本を読むことをオススメしたい。

 

『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』著;渡邊格

無印良品的な(無印良品の製品自体は都会的で工業的に作られたものな訳ですけど)、地産地消、伝統的な技術の継承を中国地方で実践しているパン屋「タルマーリー」さんの哲学の話です。
 
高度資本主義から一定の距離を置いて、家族が食べていけるくらいの「小商い」をする。これを腐る経済と呼んでいるようです。単に田舎でのんびり暮らしたいというものでなく、マルクスの考え方を土台にしつつ、資本家、というか経済の都合による労働力や人生の搾取をいかに回避するか、という理念に基づいた実践です。
 
共産主義社会は上手くいかないという歴史的な事実を筆者はちゃんと分かっていて、資本主義社会の片隅でちょっと違う道を実践するという感じです。古代に発見された素朴な葡萄酒やパンが高度で複雑な味わいを持つパンやワインになったり、素朴な体操の技が現在のE難度などと呼ばれるようなものに発展したり、人間というものは総じて凝り性で、何かと高度化させてしまうもののようですが、「金を儲ける」という仕組みが行きすぎてしまうとどうも人間にはついて行きづらいものになるらしいというのは、資本主義経済の中で生きるにしても頭の片隅に置いておいても良いのかなぁと思いますね。
 
今後人工知能と呼ばれるものが発達してより経済に占める資本の影響力が強くなるとき、資本主義経済は補助的な制度を使ってよほど強く修正をかけないと人間を幸せにしないのではないかという仮説を個人的に持っているのですが、この仮説は合っているのでしょうか?そして本当にそんな風にソフトランディングできるんでしょうか?資本主義と科学技術のもたらす恩恵(それなしにはおそらく地球の上に90億人もの人は住めないだろう)を否定せず、かといって高度資本主義経済の異様さの中で自分をすり減らしてしまわないための対局点として、本書のような視点を持って、自分がそういった生活をできないにしても、そういったところから物を買ったりして共存することこそ、「普通の人」にできることかなぁなどと思ったりします。たとえ金持ちの道楽だと言われようとも。

『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』 著:ハンナ・アーレント 訳:大久保和郎

人類史まれに見る悪行であるホロコースト、その中心の1つにいたのがアドルフ・アイヒマンという男でした。彼はホロコーストにおいてユダヤ人の人々をどの収容所に送るのかを決定する実務面のトップでした。彼は第二次世界大戦末期に他のナチス幹部らと同様に南米に逃げ延びていたわけですが、とうとう1960年にイスラエルの諜報機関「モサド」によって拉致され、イスラエルの首都イェルサレムにて裁判にかけられます。これがいわゆるアイヒマン裁判だったわけですが、これは哲学者のハンナ・アーレントがこの裁判を傍聴して書いた傍聴記録です。

副題にある「悪の陳腐さ」とはなんだったのか、それはアイヒマンが想像力の足りない普通の人間であったということでした。アイヒマン自身は殺人を犯そうと思ったわけではなく、ユダヤ人を特別憎んでいたわけでも、精神に問題を抱えていたわけでもありませんでした。彼はただ普通の会社や役所で書類仕事をするのと同じように上司の命令に従い、数百万の人々を死に追いやったということが裁判の結果明らかになったのです。これはいうなればおそらく彼以外の普通の人が同じような立場に置かれれば、同じように多数の人を虐殺しかねないという事でもありました。

この本を書いたことでアーレントはユダヤ人のコミュニティからハブられる事になりました。その理由は、アーレントはこのアイヒマン裁判には正当性がないと言ったことにありました。彼女が指摘したアイヒマン裁判の欠陥には以下のようなものがありました。

  • イスラエルの国民ではない彼をイスラエルの法律で裁くことは正当性があるのか?少なくとも彼がホロコーストに手を染めていたとき、その行為はナチスドイツ政権下では合法だった。
  • そもそもイェルサレムの法が及ばないアルゼンチンからアイヒマンを拉致してきたことは、法廷の正当性を損なわないのか?
  • 極東軍事裁判もニュルンベルグ裁判もそうだが、戦争に勝った国が負けた国の人間を裁くのは裁判として正当性があるのか?
  • 「人道に対する罪」という戦後に作られた罪状で彼を裁くのは、罪刑法定主義に反するのではないか?
  • 人道に対する罪を裁くはずのイェルサレム裁判を主催している人間が「ユダヤ民族のための法廷」といってしまっており、矛盾している。(人道に対する罪は特定の民族に対してではなく普遍的な人類に対する罪である)
  • 「ホロコーストの歴史的な記録を作るためのものだ」、という関係者の発言はそもそも裁判の目的ではない。

などなど。ユダヤ人にはディアスポラ以来の民族的な被害者意識があり、それが裁判の正当性に対する目を曇らせてしまっていると指摘したがために、彼女は友達から縁を切られるわなんやと散々な目に遭います。

アーレントはこのように徹底的にアイヒマン裁判の正当性を腐すわけですがしかし、彼女は結局最後にこのように、アイヒマンは死刑になるべきだと言います。

ユダヤ民族および他のいくつかの国の国民たちとともにこの地球上に生きることを拒むーーあたかも君と君の上官がこの世界に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのようにーー政治を君が支持し実行したからこそ、何人からも、すなわち人類に属する何ものからも、君と共にこの地球上に生きたいと願う事は期待しえないとわれわれは思う。これが君が絞首されねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である。

あなたはこの理由に納得できるでしょうか?そもそも人を死刑にすることに賛成できるでしょうか?内容的にも分量的にもヘビーな一冊ですが、読んで良かったと思う一冊。生活のため、組織人として生きるとき、ここまでシビアでなくとも人倫にもとるような判断を迫られるときが、どんな人にも訪れるかもしれない、その時あなたは命令に逆らう勇気を持てるか?本書はそう問いかけます。

『軍事学入門』著:別宮暖朗

国の内側で個人間の諍いの抑止力、調停としては法律が機能するわけですが(民事訴訟を起こされるかもしれない、刑事罰を受けるかもしれないということが暴力への抑止効果を持つ)、このおかげで我々は個人的に武装せずとも比較的安全に暮らすことができるわけです。そういう意味で国のシステムがキチンとしているって本当に大事なことだなぁと思います。ところが、それが通用しない領域がある、それが国際問題というやつで、国家間の関係とはとどのつまり国家間の暴力、すなわち軍事が物をいうアウトローな世界な訳です(経済も文化も、土台にはやはり暴力=軍事がある)。

ということで、本書は、戦争、動員など、安全保障に関するあれこれを近代戦史をひもときつつ紹介する入門書という感じです。軍事は初学者で趣味で勉強しているので真偽は分かりませんが、第二次世界大戦後植民地支配が終わったのは、宗主国が植民地を維持する安全保障上のコストを支払えなくなったから、などなど筋は通っているなぁと思いました。

戦争はすれば勝った側も負けた側も不幸になる、儲かるのは銃後の武器商人だけという話なのでしないに越したことはない。とはいえ、何らかの理由である国が戦争を仕掛ける先を考えるとき、要するに戦争を仕掛ける意味がある場所に軍隊を送って勝てると思ったところを攻める訳ですよね。要するに武力、暴力というものは行使しないこと、抑止力(こいつにけんかを仕掛けると痛い目に遭うぞと思わせる)として保持することに意義があるのだなぁという話、安全保障という言葉はこういうことを意味するんですなぁと……。

日本で安全保障の考え方は中等教育までに教えられることがなく、家族や友人、自分自身が自衛隊に関わりがないとなかなか拒否感があるものだと思いますが、我々の安全保障を担ってくれる国家の主権者として、こういった本は読んでも良いのかなぁと思いますよ。

 

無印良品のまな板立てでノートパソコンスタンドをDIY

個人的にパソコンは、ノートパソコンにディスプレイを外付けしてデスクトップ的に使うのが、動画編集や3Dゲーム、RAW現像、ニューラルネットの調教などをしない限りは合理的なのではないかと思っています。現在のモバイル用CPUは十分な性能ですし、UPSを一緒に買ったと思えばデスクトップパソコンとの価格差は吸収できているかなとも。

そんなときにノートパソコンを平置きすると場所を取るので、スタンドをつけて本みたいに縦に置きたくなるわけですけど、探してみると結構高い。

ということで、安く作れないかなぁということでやってみました。無印良品のまな板スタンド(800円)と家具用の両面テープ付きのフェルトを使って大体1100円(税抜き)くらいでできました。

 

こんな感じ。

IMG_0062

うちで使っているMacBookProだと、両者の寸法の関係上厚みがちょうど良かったのでフェルトクッションを底と立てかけ部の四隅に使ってこんな感じになっています。これで本体に傷がつきにくくなります。

IMG_0063

ちなみにこのまな板スタンド、素晴らしいのは薄手の持ち運び用ノートパソコンと2台置きができるということです。この辺、専用品に負けないポイント。

IMG_0064

見えるでしょうか。こんな感じ。

ということで、見てくれを気にせず、いわゆるクラムシェルモードでノートパソコンを使いたい人にお勧めしたいDIYです。

『御霊セラピスト印旛相模の世直し研修』著:浅生楽 挿画:小宮国春

ポケモンGOでスマホ片手に徘徊もとい、散歩をする人が世界的に増えている2016年の夏ですが、ブラタモリが地理学会から表彰されたのと相まって世はにわかに散歩ブームと言わんばかりです。カメラもって気になる風景を撮り歩いても、史跡を辿っても、町歩きは楽しいものです。

本作は大学4年生で、他人の相談に乗るのが得意なセラピスト性質の女性、印旛相模(いんばさがみ)が平将門の御霊(ごりょう)、将門の上司で特殊な育ち方をした巫女、川久五月(かわくさつき)と共に、関東平野を流れる川の周辺で巻き起こる様々な霊的なトラブルを解決するというお話。

著者曰く、いろいろな側面を持つ作品だそうですが、東京平野、武蔵野台地の各地の地勢、歴史が紹介されるため、私にとっては完全にブラタモリでした。ちなみに日本史はほとんど忘れてしまい、東国武士ネタはサッパリでした平将門くらいは分かるけど他の歴史上の登場人物は某窃視狂くらいしか分かりませんでした。しかし、武士って発想は完全にヤンキーですね。日本社会が芸能界を始めヤンキー、ヤクザ的なものだと言われるとそうかもしれませんが。

(特に人生が上手くいっていない)人の心の持ちようや、カルト宗教同然の洗脳手法で人から労働力を搾取するブラック企業の有様、1995年のオウムの同時多発テロ事件以来、日本社会の一般的な感覚として宗教を忌避する人が増えて、翻ってこの世にカルト宗教的なものが蔓延してしまったという世相分析などは、個人的には割と「そうだよなぁ」と思うところがありました。本当に、今の日本社会のミクロ的にもマクロ的にもなんとなく居心地が悪い感じは何とかならないもんですかねぇ。

本作の著者の前作は生活を物理的に効率化、改善するライフハック紹介小説だったわけですが、「叶うかどうかは別として、何かを望むこと」自体はその人の勝手(意訳)など、固定観念でこわばっている肩がすこし緩みそうな考え方がちりばめられており、本作は楽しく生きるための心持ちについての示唆に富んでいるように思います。個人的な実感ではありますが、自分の「望み」とか「欲」を自覚することは本当に大切なことです。幸福、満足、あるいは諦めの基準になるものですから。ちなみに自分の「望み」が分からない人は、とりあえず「今夜は〜が食べたいな」とか、そういう小さいことから自分の内なる欲求に従う訓練をするのがいいのではないかと思っています。

色々雑ぱくに書いてきましたが、現代の世相と日本史を上手くミックスして調理したやや高年齢層向けライトノベルとして普通に面白い作品です(とはいえ予備知識が足りなさすぎると楽しめなさそうではある)。物理的な接触はありませんが、相模と五月のちょっと親密な関係もありますので、お好きな方はどうぞ。

 

『自家製梅酒2016 途中経過』

6月はじめはこんな感じだった梅酒も約3ヶ月が過ぎてだいぶ浸かってきました。

R0001597

R0002256

今はこんな感じです。一番左の瓶は後に追加したもの。農家から直販で買った1キロ1000円くらいのちょっと良い梅を使っています。南高梅なので色が濃く出ています。右の青梅を浸けたもの、そして真ん中のスーパーの南高梅を浸けたものに比べてもだいぶ赤いです。結果的に今年は発注ミスでスーパーで買ったものと、農家から直販で買った物を見比べることになったのですが、やっぱり直販のものは香りが良く、色も濃く、粒も大きかったです。まぁ急遽広口瓶を買わなくてはならないわなんやらで失敗だったんですが、良い経験でした。

R0002257

ちなみに緑茶梅酒はこんな感じ。

まだ味見はしていませんが、浸け上がりを楽しみにしたいと思います。

 

『医師の一分』著:里見 清一

帯のあおり文句には、2016年の中頃に世間を騒がせた某大量殺人事件を思わせるわけですが、もちろん現役のお医者さんが書いているのでそんなことはなく、現代の医療と死生観についての辛口エッセイという感じの新書でした。元々どこかの週刊誌の連載だったようで。

そもそも生きているとはどういう状態なのか、判断力を何らかの形で失ってしまった人の自己判断を尊重するとはどういうことか、医学の専門知識のない患者本人に、説明をした上とはいえ自分の治療方針を自己決定させることはそもそもフェアなのか、災害で多数のけが人が出ているわけでもないが、深夜の救急医療の現場で複数の患者さんが重なったときにどの人から治療すべきか(所謂トリアージですね)、などといった微妙な問題に切り込んでいます。

無限に医療や介護に携わる人がいて、無限に予算があって治療を施せるならそれでいいんでしょうが、今後の日本は医療や介護のお世話になる側ばかりが爆発的に増えていくような状況になるわけで、死んでいく人のお守りばかりしても国は沈むばかりです。命は平等でありそれぞれ尊重されなくてはならないが、とはいえ現実的に目の前に溢れる救うべき人を資源の制約の問題から選別しなくてはならない、となったときにどうするべきなのかというのは難しい課題でしょう。自分は医療に携わる人間ではないし、あるとすれば身内の介護くらいのものでしょうが、本当に気が重いです。自分自身も最終的には老いて衰えて死ぬわけで、できるだけその時の若い人に迷惑をかけないようにしたいわけですが、人生自分の思い通りにならないの筆頭ですからねぇ、老病死の問題は。

ということで、自分の人生に訪れるであろう老病死について思いを馳せるには適当な一冊かもしれません。