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『御霊セラピスト印旛相模の世直し研修』著:浅生楽 挿画:小宮国春

ポケモンGOでスマホ片手に徘徊もとい、散歩をする人が世界的に増えている2016年の夏ですが、ブラタモリが地理学会から表彰されたのと相まって世はにわかに散歩ブームと言わんばかりです。カメラもって気になる風景を撮り歩いても、史跡を辿っても、町歩きは楽しいものです。

本作は大学4年生で、他人の相談に乗るのが得意なセラピスト性質の女性、印旛相模(いんばさがみ)が平将門の御霊(ごりょう)、将門の上司で特殊な育ち方をした巫女、川久五月(かわくさつき)と共に、関東平野を流れる川の周辺で巻き起こる様々な霊的なトラブルを解決するというお話。

著者曰く、いろいろな側面を持つ作品だそうですが、東京平野、武蔵野台地の各地の地勢、歴史が紹介されるため、私にとっては完全にブラタモリでした。ちなみに日本史はほとんど忘れてしまい、東国武士ネタはサッパリでした平将門くらいは分かるけど他の歴史上の登場人物は某窃視狂くらいしか分かりませんでした。しかし、武士って発想は完全にヤンキーですね。日本社会が芸能界を始めヤンキー、ヤクザ的なものだと言われるとそうかもしれませんが。

(特に人生が上手くいっていない)人の心の持ちようや、カルト宗教同然の洗脳手法で人から労働力を搾取するブラック企業の有様、1995年のオウムの同時多発テロ事件以来、日本社会の一般的な感覚として宗教を忌避する人が増えて、翻ってこの世にカルト宗教的なものが蔓延してしまったという世相分析などは、個人的には割と「そうだよなぁ」と思うところがありました。本当に、今の日本社会のミクロ的にもマクロ的にもなんとなく居心地が悪い感じは何とかならないもんですかねぇ。

本作の著者の前作は生活を物理的に効率化、改善するライフハック紹介小説だったわけですが、「叶うかどうかは別として、何かを望むこと」自体はその人の勝手(意訳)など、固定観念でこわばっている肩がすこし緩みそうな考え方がちりばめられており、本作は楽しく生きるための心持ちについての示唆に富んでいるように思います。個人的な実感ではありますが、自分の「望み」とか「欲」を自覚することは本当に大切なことです。幸福、満足、あるいは諦めの基準になるものですから。ちなみに自分の「望み」が分からない人は、とりあえず「今夜は〜が食べたいな」とか、そういう小さいことから自分の内なる欲求に従う訓練をするのがいいのではないかと思っています。

色々雑ぱくに書いてきましたが、現代の世相と日本史を上手くミックスして調理したやや高年齢層向けライトノベルとして普通に面白い作品です(とはいえ予備知識が足りなさすぎると楽しめなさそうではある)。物理的な接触はありませんが、相模と五月のちょっと親密な関係もありますので、お好きな方はどうぞ。

 

『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか 感情労働の時代』著:武井麻子

なんでモンスターペアレントやモンスターカスタマーみたいなのが出るのか、ということについて、ライトノベル作家の浅井ラボさんが「奴隷と王様ごっこ」という記事を書いているんですが、個人的にはなんとなく当たっている気がします。外国に行って思いましたが、向こうの接客業って愛想悪かったりと、結構適当ですもん。日本の接客業は300円の牛丼から云万円のブランド品まで、何買っても店員さんがニコニコしてくれます。
ということで、本書は肉体労働、頭脳労働に続く第3の労働形態である感情労働というものが抱えている問題について書かれた本です。感情労働とは何かというと、いわゆるサービス業、営業や接客など自分の感情を制御し、要請される役割を演じることによって対価を得るという労働形態です。著者の武井麻子さんは医療系の出身ということで看護師や医師など、死に直面する感情労働の例を多くひいています。
この感情労働のなにが問題なのかというと、人間にとって自分の感情を偽るということは精神衛生上大変良くないことであり、医療従事者やサービス業に携わる人に心の調子を崩してしまう人が多いそうです。その緩和方法として、セラピーやカウンセリングなどを通じて自分のありのままの感情を理解してもらうというプロセスがあげられています。そして、現代では経済活動の優先から接客(接遇)マニュアル、などといった形のサービスのマニュアル化によって感情労働の強化が進んでおり、人間の感情を取り巻く状況は大変厳しい物になっている、と問題提起してます。
この感情労働の問題というものは、ある職業の人特有の問題なのかというとおそらくそうではなくて、介護殺人のような形で表出してきているように、親の介護、配偶者の介護などを通じて誰にでも降りかかりうる問題であるように思います。こういう問題が現代においてピックアップされるようになった原因は、主に科学技術によってどうしようもないことが何とか出来るようになってしまったことで、いろいろなことに完璧を求めるようになってしまったこと、そして逆に宗教のようなどうしようもないことを受け入れるための精神的な装置の力が弱まってしまったことがあるんではないかと、個人的には思います。
じゃあどうすればいいのでしょうね?考えつくところでは、弱音を吐ける相手や本音をぶっちゃけたり負荷を分散するコミュニティを確保すること、そして楽に考えること(世の中にはどうしようもないこともあると適度に諦めるとか、親ならば最期まで無償の愛情をもって介護しなければならない、みたいな思いこみを捨てること)なのではないでしょうかね?