『屈折くん』著:和嶋慎治

老舗の本格派オルタナバンド「人間椅子」のギター&ボーカル和嶋慎治氏の自伝。

この和嶋慎治というおじさん、着物着て「冥王(プルートゥ)」と名付けられたギターを「歯で弾く」あるいは「背中で弾く」という冗談みたいな人です。『デトロイト・メタル・シティ』かよ……。

本書では生い立ちから上京、人間椅子の結成と長い低迷期、そしてここ最近の復活までが綴られます。一時期結婚していたとか、エフェクター作るのが趣味だとか、アル中気味だったとか、自分の中で超絶ギターの上手いおじさんが、超絶ギターの上手い面白いおじさんにクラスチェンジしました。盟友のベース鈴木研一氏と「人間椅子」やっていこうかと決意する下りなんかはなかなか感動的で、ライブツアーの前に突如「おばあちゃんの格好をしたくなった」というのは「解せぬ」としか思いません。

音楽は完全に個人の好みによるわけですが、私の場合、メタルとかオルタナとか「人間椅子」で初めて聞いたんですが、すっかり参ってしまいました。かっこいいんですよ。あと、「人間椅子倶楽部」という番組(最近ネット配信として復活した)で、メンバー3人でまったりやっているのもなんか微笑ましく、良いです。個人的には録音媒体よりもライブから入った珍しいバンドです。

今まで聞いた中だと最近は「宇宙からの色」が好きです。

『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』著:鴻上尚史

2013年にゲーム「艦これ」を始めて、軍艦や軍用航空機の名前を覚え、区別ができるようになりました。第二次世界大戦についての知識が深まるにつれて喉に引っかかる小骨が、「特攻」や「玉砕命令」でした。本書はそれについて現代人の視点から書いている本で、2015年に亡くなった不死身の特攻兵、佐々木友治さんへのインタビューを含む一冊です。『「空気」と「世間」』、『孤独と不安のレッスン』等の著作もある劇作家の方で、私は個人主義、自由主義の立場から日本社会の悪いところ、息苦しさや閉塞感になんとか抵抗しようと考えている人だと理解しています。奇跡的なタイミングで佐々木さんに会うことができたという下りを語る部分は大変叙情的で演劇の台本のようです。

我が国の陸海軍が行った世界にまれに見る自殺攻撃「特別攻撃」については、それを拒否して工夫に工夫を重ねて戦果を挙げた「芙蓉部隊」について書かれた『彗星夜襲隊』を読んだりはしましたが、本丸については、現代の価値観で断じて良いものなのかどうなのか等色々と個人的に抵抗感があり踏み込んで勉強できずにいました。特攻で死んでいった人たちを英雄視する一方で、特攻を命じた人たちの無能や愚かさ、サイコパシーを批判する声もあり、とはいえ一般には前者が前面に出され、「戦争は二度とやってはいけません」的な学校道徳的な合い言葉で思考停止させられているような感があり、実際のところはどうなのか?というのを知りたい一方で、触れがたく感じていたのです。というわけで本書です。

#はじめに

読む限り、現代風の個人主義、自由主義者でも、現代風の「命を大事に」という思想を当時の佐々木さんが持っていたわけではありませんでした。それにもかかわらず、佐々木さんが上官の命令を拒否しながら「不死身の特攻兵」たり得たのはなぜだったのか?は本書を読んでいただきたいのですが、自分としては以下の項目が重なったからなのかなと思います。

– 佐々木さんがお父さんから教わった命に対する考え方
– 「航空兵」としての実力、できるだけ沢山戦果を挙げるということに対する真摯さ
– 「空」という自由になれる時空間
– 理不尽に屈せず自分の権限の範囲内で協力してくれる上官や同僚

#「王様の首は革命と共に落ちるためにある」

本書の中では、特攻作戦に参加した現場の隊員達と、それを命じた指揮官は分けて考えなくてはならないだろうと主張されています。過剰に美化された特攻隊員のすがすがしい姿、といったものがよく前面に出されますが、実際のところはそうではなく、最後の最後まで死を受け入れるために激しく葛藤する、あるいは、死を命じる上官の理不尽さや有効性や合理性の乏しい作戦に命を捧げなければならない無念さをどうにかこうにか飲み込んで飛び立ったのだ、ということが書かれています。他方、特攻を命じた富永恭次といった指揮官や戦争指導部に対しては、戦後自らの汚名をごまかすために隠蔽工作を行ったことも含めて責任を追及し、原因を分析し、繰り返されないために考えねばならないと書いています。

特攻が途中から「志願」という名の強制に近いものになっていったくだり、上司は確かに明確に指示を出してはおらず、部下が自主的にやったように見せかけつつ、事実上指示を出している、というあたりは、現代日本の組織が起こす不祥事などでも散見される事例ですね。70年たっても、あれほどボロクソに負けまくっても結局のところは変わっていないのだなぁと。権限と責任そしてそれなりの待遇というものは三位一体のものであり、往々にして皆権限と待遇だけを得て、できるだけ責任を取りたがらないものなんでしょうが、やはり決定権を持っていた人に対する責任追及というものは何事につけきっちりやらねばならんのだなと思うのでした。そして、自分が決定権を持つことになったときには、つくづく「ダサい大人」になりたくないなぁと思うのでした。

#さいごに

『「空気」と「世間」』が山本七平の『「空気」の研究』と阿部謹也の『世間とは何か』を元にしているのに対して、本書は高木俊郎の『陸軍特別攻撃隊』が元になった本なのでしょう。絶版なのが実に惜しい。本書を読んで是非とも読んでみたくなりました。

個人主義や自由主義が全面的にいいのか?弊害はないのか?という話はあるんですが、集団の中でマイノリティとして抑圧されたり、居心地が悪い思いをしている人間にはやっぱり重要な思想のはずなんですよね。特に、集団が個人の自由や命を押しつぶそうとするあれこれが、現在でも散見される日本社会においては特に……。

 

『戦争は女の顔をしていない』著:スヴェトラーナ・アレクシェービチ 訳: 三浦 みどり

第二次世界大戦の独ソ戦に従軍したソ連軍女性兵士達の体験談を集成したもの。戦時性暴力、飢餓、人肉食、赤子殺し、本書は悲惨な体験のデパートで、子どもの頃に聞いた戦争体験や、日本だと8月15日前後に増える第二次世界大戦を回顧する番組で、戦争体験者が語る体験に非常に近い。洋の東西を問わず、第二次世界大戦は本当に壮絶で悲惨な戦争だったのだろうということがよく分かる。そして恐らく、今も地球のどこかで起きている紛争や武力衝突と呼ばれるものも、同様にひどいものなのだろう。

共産主義、社会主義国の息苦しさ、上流階級のテクノクラートではなく、特に地べたで生きている大多数の人たちの息苦しさ、みたいなものは、理解できるような理解できないような。それも自由主義の国から見た身勝手な視点なのかもしれないが。

一人の回想録だが、傷痍軍人の手記という意味では「アメリカン・スナイパー」と対比したくなる。あの本はマッチョなアメリカ人男性、しかもSEALS隊員という極めつけのマッチョ男性の視点から書かれているものなので、なんとなく勇ましい書き方がされている。それに対して本書の筆致は、まさに若い頃の悲惨な体験を引きずりながらなんとかかんとか生きてきたおばあさんが、時には涙を目に浮かべながら、語ったのだろうなというのが分かるような気がする(過剰なイマジネーションかもしれないが)。

『日の名残り』著:カズオ・イシグロ、訳:土屋政雄

ノーベル賞受賞作である。昨年からノーベル文学賞受賞作家の本は読んでみることにした。さて、本作は七つの海を支配した大英帝国の落日を、イギリスっぽいものの代表格「執事」であるスティーブンスの旅と、追憶の過程を通じて懐かしむという作品のようである。

日のなごりというタイトル、大英帝国の落日というテーマ、老いてくたびれたスティーブンス……といった作中の要素、表現が、1つのモチーフで統一されている感じが非常に良くできているなぁと感じられる。不器用に「品格=公的な場で衣服を脱ぎ捨てないこと」という執事=古いイギリスの在り方を徹底したが故に生じた、沢山の後悔と悲しみをぐっと胸に秘めていて、ある種それを開放することになる旅の終わりのスティーブンスは実に胸に迫る。さんざ自分が何をどう考えてきたのかを言葉にしてきた中で、あの描写は実にズルい。

ヒロインは結婚しており、スティーブンスも会話の中では「ミセス・ベン」なのだが、地の文(スティーブンスの心中)では変わらず一緒に居たときの「ミス・ケントン」であり、何十年ぶりに会った彼女の容姿の描写も非常に好意的に内心で語られている。そんな回りくどい思慕の描写が実にエモい。

ちなみに、スティーブンスのイメージは、作中の時代は半世紀ほど前のことだが完全に森薫先生の『エマ』に出てくるスティーブンスで、森先生には感謝しかない。おかげさまで本書をとても楽しむことができた。

 

 

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ものの整理を劇的に簡単にする(かもしれない)4つの分類

ものとの付き合い方は難しい。昔はものがないことに困っていたというが、今はものがあふれていることに困っている場合が多々ある。そこでものとの付き合い方を考えることはとても重要である。

自分にとってどれがものとのいい付き合い方なのかはその人にしか分からない。そしてそれはすぐに分かるものではなく、試行錯誤の末にしか分からない。ということで、ここでは具体的にどうしろということは言わない。試行錯誤の出発点になるかもしれない私の考え方を開陳してみたいと思う。

  1. まずは、自分の手元への滞留時間で2つに分けて、長期間に渡って所有するもの、短期間で使ってしまうもので分ける。
  2. さらに、長期間に渡って所有するものをを使用頻度に応じて3つに分類する。これで自分の持ち物に以下のような4つの分類を作る、というものである。
  • ストック:長期間に渡って所有するもの
    • 日用品:一定以上の頻度(毎日、毎週、月にに何度か)で使うもの 例:日常的に着る衣服,調理用具,家具、家電等
    • 非日用品:特定のシチュエーションで必要となるもの 例:買ったはいいが使っていないもの、冠婚葬祭用品、(ある種の)スポーツ用品、キャンプ道具、(公共交通が発達した地域における)自動車
    • コレクション:持つことそれ自体に意味があるもの。使わないものでも構わない
  • フロー:短期間で消費,あるいは手放してしまうもの 例:食べ物,生活雑貨,雑誌,読み捨ての新書など

ものの整理、特に減らす方向で検討する作業とは、基本的には,非日用品の見直し(レンタル利用の検討など)、コレクションの整理、日用品の厳選の順にやっていけば良いのだと思う。日用品の定義を「一定以上の頻度」と曖昧にしているのも、日用品と非日用品、特に買ったはいいが使っていないものとの境界をどこに置くかに、あなたのものに対するスタンスが反映されると考えるからである。

個人的には、フローは減らしてしまうと非常時に困る場合がある(災害時の備蓄、という側面もある)ので、ある程度余裕を持って予備を用意しておくことをオススメしたい。

あとは逆の考え方もある。ものに合わせて生活を変えるのである。例えば着物を持っているが、使っていない(非日用品になってしまっている)場合、着物を日常的に着るようにすれば、日用品に格上げできる。スポーツも日常的にするようにすれば、スポーツ用品の利用頻度が上がり、電車を自動車通勤にすれば、日常的に自動車を使うようになる。人は自分の存在意義を自分で見いだす必要があるが、ものは存在意義を与えられて生まれてくる。いつか塵芥に帰すとしても、手元にある間は使ってやるのがもののため、だと個人的には思う。

最後に言いたいことは、整理していいのは自分の持ち物、他人の持ち物をどうこうするな、これが絶対の前提である。他人のものをどうこうするものは時にその人からの信頼を回復不能なまでに損なってしまう可能性があるということを、努々忘れるなかれ。

『スクールカーストの正体 キレイゴト抜きのいじめ対応』著:堀裕嗣

「スクールカースト」という単語を知っているでしょうか?主に中等教育の学級、学校において、学生達が暗黙的に、お互いに格付けし合った結果として生じる階級構造のことです。米国だと大抵アメフト選手のジョックス、チアリーダーやってるクイーンビーを頂点に、下層にギーク(技術オタク)やナード(アニメ・マンガオタク)が位置する的なアレです。

本書は、このスクールカーストについて非常に的確な分析と、そこから生じる現代の「いじめ」の対策をいかに取るべきか、という指針について書いたものです。筆者は中学校教師を長く務めて、著述活動も結構やっておられる方のよう。筆者によるスクールカースト分析の解説としては、非常に良質な解説記事があるので、そっちをご覧ください。

現実を抽象化して類型化するという作業は、学問において基本的な作業です。自然科学の場合は再現性が良いことが多く、工学に応用されて製品として使われる場合があります。人間が絡むととたんに再現性が悪くなるわけですが、そういった領域においても、抽象化された理論を学び、物事の道理をわきまえれば、現場での微調整によって問題の解決が非常に容易になるということがあるのだと思います。(とはいえ、現場での応用力、そもそもの問題認識力、そういった個人の応用力にこの手の理論の有効性が大きく依存する点が、多くのビジネスノウハウ本がビジネスマンの「オナニー」で終わってしまう理由の1つでしょう。もちろん理論がプアノウハウであるということもあり得ます。)

本書は恐らく現場で中等教育現場の悲喜こもごもを定点観測して、試行錯誤した結果であり、豊富な事例に裏付けられた本書は人間が絡む領域において抽象化された理論を学ぶことの好例と言えると思います。

もちろん先生にも、子供がいる親にも、はたまた学生時分を思い出して自分が何タイプだったのかを想像するのにも、いろいろなタイプの人がいろいろな読み方ができる本だと思います。

スクールカーストという単語にピンとこない人はライトノベルなどどうでしょう。『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』というシリーズはスクールカーストを扱った作品の白眉ですので、副読本としてぜひ。

  

『もしもし、てるみです。』著:水沢悦子

インターネット、SNSに疲れた社会に一服の清涼剤。アナクロな外観をした「もしメカ」という携帯電話を販売する「もしもし堂」という会社の「てるみさん」と周りの人々の群像劇。もしメカからは女性のオペレーターが徹底的に話し相手になってくれるサポートセンターにかけることができます。一応鈴太郎という男の子がてるみさんに片思いする、という筋もあるんですが、そっちは全然進まないんですよね。

歌が上手いけれど、「生放送」したら見た目を叩かれて傷ついた女の子とか、自分用にえっちな自撮りを撮っている女の子に「若くて綺麗な体を写真に撮っておきたかった」と声をかける祖母とか、自分で作ったプラモデルを友達に見せたら、「もっとすごい作品がインターネットで見えるよ」とマウンティングしてくる小学生とか、作中で起こる出来事は現実の戯画で、「あぁー」と思うこと請け合いです。(女の子の自撮りはよく分からんが)。

元々青年向けマンガを書いていた作家さんなので、話自体は牧歌的なのに、ちょくちょくきわどい描写が入り、性が常に隣にあるような不思議な感じ。苦手な人は苦手なのかもしれないが、個人的には嫌いではないです。

普段SNSで承認欲求の充足に必死になっている人も、それを横から眺めている人も、癒やされること請け合いの時宜を得た一作です。

 

ソニーのハイレゾウォークマンのノイズキャンセリング機能を試す

ソニーのハイレゾウォークマンNW-A35。快調に稼働しています。MDR-EX800STとの相性はとても良いように思います。音源の情報量が専用のチップで増幅され、その上イヤホンが鳴らす音の解像度が高いので、楽器の音やボーカルの声の位置がとてもよく分かります。音楽を聴いていてとても楽しいです。

さて、部屋の整理をしていたら、どこで入手したのか思い出せないソニーのイヤホンが出てきました。

型番を見ると、MDR-NC033L1。NC?

本体の部分に外部の音を取り入れるためのような穴が空いており、端子が普通の3.5mmミニジャックではない。あ、これノイズキャンセリングイヤホンなのでは?ソニー製品だし、A35で使えるのでは?

ということでやってみました。(再現)

私はこういうときはマニュアルは読みません(最近はついてないしね)。きっと設定の所にあるだろう。

下の方にありました。「ヘッドホン」メニュー。微妙に型番が異なりますが、「NC」、「33」。というキーワードをもとに2つめのイヤホンを選択。

EX800STとは異なり「ノイズキャンセル」という項目を選べるようになるので、それを「オン」に。

画面右上の表示バーに、それっぽいアイコンが出ました。これでノイズキャンセリング機能がオンになりました。

最初のうちは「サー」という逆位相音が気になりますが、操作してスイッチが入ると、確かに周囲の音が聞こえにくくなります(聞こえないわけでない。恐らく、安全のために完全にキャンセルしていないのだと思います。)。音楽をかけると電車の中とか、ジムのランニングマシンで運動しているときでも音楽が聞こえやすくなります。

イヤホンの音自体は低音が強めでハッキリしています。ハイレゾ化処理された音源の音を生かせているのかと言われるとよく分かりませんが、余り細かい音質を気にするシチュエーションで使う機能ではありませんから、これはこれでという感じ。唯一の難点は接点が繊細で、不可抗力でちょっと端子がずれたりすると再生が中止されてしまいます。ここがよくなれば良いんですが、まぁ気をつければ何とかなるレベルではあります。

ということで、よく分かりませんが、発掘されたイヤホンでノイズキャンセリング機能を使用することができました。案外悪くないですね。まぁ、外を歩いているときにあまり音楽を聴かないんですが。

ソニー、ハイレゾウォークマンに関する過去の記事

Sony Walkman NW-A35 購入編

Sony Walkman NW-A35 試聴編

 

『Spotted Flower 3』著:木尾士目

『げんしけん』の並行世界の後日譚というか、どこかで見たことがあるキャラクター達の物語。主人公は「斑目くん」ぽいオタクの男性と、「咲ちゃん」ぽい普通の女性。2巻辺りから『げんしけん』で見たようなメンツがガンガン出てきて、個人的には完全後日譚感が出てきました。

今巻の目玉は「波戸くん」っぽい女装癖のある男性です。『げんしけん』では波戸くんの斑目への恋心はマイルドに落ち着きましたが、こっちはイケイケというか、男性器はまだ残しているけど、胸には乳房をつけたらしく、傍目には完全に女性。「矢島さん」っぽい女性とタッグでBLマンガを描いていて、私生活でもパートナーという関係性。掲載誌がその辺のコードが緩いのか、というか、キャラクターデザインもあるんでしょうが、キャラクターの体の性と心の性、性指向がどうなってるのかよく分からなくなってきます。

異性愛以外の表現が本当に苦手な人はやめておいた方がいいんでしょうが、そうでないなら、その辺の固定観念を解体して、「本人達が良いなら良いかな」と思えるようになるには誰も傷つけない良い教材なのではないでしょうか?作風は全く違いますが、受ける印象は『放浪息子』に近いものがあります。

『沈黙』著:遠藤周作

比較的宗教に寛容だといわれ、イスラエルや中東で繰り広げられている宗教を巡る争いや暴力に無縁と思われがちな日本ですが、かつては苛烈な宗教弾圧を行っていました。歴史の教科書では「隠れキリシタン」とか「踏み絵」とか呼ばれるトピックで取り扱われる江戸幕府のキリスト教弾圧です。本作はこれに題材を取った作品で、日本のキリスト教文学の白眉だそうです。最近外国の監督が映画にしていました。

テーマは「神の沈黙」、ストーリーは一本筋で、主人公である宣教師が、江戸時代の長崎で拷問に耐えかねて棄教するまでが描かれます。貧困、不潔、飢え、悪臭、痛み、梅雨の不快な湿度といった情景の描写が巧みで、とかく主人公が置かれる過酷な環境がこれでもかと描かれます。私はキリスト教徒ではないので、彼らの神に対する考え方は断片的にしか分かりませんが、信仰、良心と現実の厳しさの間で揺れ動く主人公の心情が身に迫りました。対して弾圧を行う日本人の役人達は血も涙もない人間として描かれ、命の価値が現代とは違うとはいえ、よくもまぁ他人に対してここまで冷酷になれるものだと思わされます。いやはや、すごい作品です。

もう一人の重要な登場人物はキチジローという日本人です。彼はキリスト教徒ではあるのですが、暴力に即座に屈して踏み絵をしてしまうような「弱い人間」です。そんな彼も、おそらくはキリスト教に対して追い風が吹いていた時代ならば敬虔な信者として生涯を送れたであろうに、向かい風が吹く作中の時代には酒に逃げるわ主人公を売るわで、一言で言うなれば「人間のクズ」。キリストの教えとそれを奉じる主人公は彼をも許しうるのか、というのも作品の柱です。

本作はキリスト教をテーマにしていますが、置かれた状況と本人の選択(それすら少しの手違いで違った物になっていたかもしれない)の結果そうなってしまった「醜く、貧しく、卑屈で、怠惰で……etcおおよそ付き合いたいとは思わないような人々」にいかに手をさしのべるのか、というのは僕らにも突きつけられる問題だよなぁと思います(自分がそちら側に回るかもしれないということを含めて。)

キリスト教に限らず人間社会の普遍のテーマを、巧みな文章と説得力のあるストーリーで編み上げた名作、現代にこそ読まれるべき一冊でしょう。