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バンビのチタンベルトBTB-1201N

革ベルトカッコいいんですが、特に高温多湿な日本の夏には不適当、金属ベルトに替えたいが、ステンレスだと重たい。間を取ってチタンベルトに替えてみました。日本のメーカーバンビのチタンベルトBTB-1201Nです。最近種類が増えましたが、汎用品としては3種類しかなかったものの1つ。

革ベルト並みに軽量で、ひんやりせず、ステンレスとの色の違いもそこまで露骨ではありません。ベルトの厚さは3mm、幅は大体20mmで、取り付けの所は18mmです。この時計にはフィット管を使っています。あまり大きくて厚くて立派な時計には合わないと思いますが、10mm位の厚さの時計にはばっちり合うのではないでしょうか?

ただ、被写界深度の関係でぼやけているのが分かると思いますが、たたんでも平たくすることができません(※追記あり)。作りも板材を曲げて作った感じです(チタンの切削は大変なので、定価6000円程度のベルトで削り出しのピースのものを作るのは難しいと思いますが。その辺がちょっと残念かなという感じ。

色々書きましたが、非常に良い感じで、しばらくこれで行きたいと思います。

※追記
文字盤の6時側に平たくすることはできませんが、12時側には下の画像のように平たくたたむことができるようになっています。2週間ほど連続で使いましたが、革ベルト並みの重量と、金属ベルトのサラサラ感を両立できる良い製品です。

『Landreaall(32)』著:おがきちか

年に2回の新刊が出ました。今回はアトルニアの職業の話と、次の大きなクエストが始まる話。

前半はアトルニアの職業の話、「何十年かに一度の王様の戴冠式で王冠を運ぶ職業を代々受け継いでいる祖父と子どもの話」と、「暴れん坊将軍DXが、中間搾取が酷い派遣業者に手入れをする話」の2部構成です。良いファンタジーやSFって、現実の風刺画になったりしますが、今回はなんかそんな感じでした。王冠を運ぶ仕事は、「そんなものが仕事になるのか?」と現代の感覚では思いますし、後者のエピソードで出てくる仕事は現代でもありそうな話で……。「誰にでもできる仕事」って足下を見られがちですが、それができるなら「ちゃんと暮らしていける」べきだよなぁと思います。現代も結構怪しいですね……。

後半は王城の地下のダンジョン攻略でトラブルが発生します。エピソードの始まりで事態は混乱を極めて終わりますが、はてさてどうなっているのでしょうか?エピソードの緊迫感とは別で「騎士と姫君という関係性の否定」をあれほどロマンティックにやってのけたDXとディアの仲が、大仕事をやっている現場に差し入れするくらいにアットホームなのはちょっとほっこりしますね。

次は半年後です。

他の巻の感想はこちら

  

『冒険投資家ジム・ロジャース世界大発見』著:ジム・ロジャース、訳:林 康史、望月 衛

勤勉を尊び、怠惰や腐敗を軽蔑する投資家のおっちゃんが、若い奥さんを連れ、メルセデスのCLKクーペとGワーゲンを合体させた魔改造車で世界を何十万キロも走る。20年前の地べたの世界の定点観測(一人の人間の目から見た)記録として極めて興味深い一冊。現在の状況からすると結構変わっている部分もあるなと思う。今なら、彼が本書で行っている未来予測の答え合わせができるかもしれない。

読んでいると、人と出会って見たもの聞いたものを分析する視点が非常に面白くて、歴史や経済、世の中の一般的な法則性に対する造詣が深いことが分かる。博学であることは優れた投資家であるための必要条件なのかもしれない。「世界中が金を借りている日本政府が、国民に大きな借金をしている」と書いてあるのは笑った。日本のニュースでは日本の財政赤字=国民の借金と言うんだけど、実は日本政府が国民にしてる借金なんだよね(少なくとも2018年現在では)。

フィクションで陸路の旅行記というと、芝村裕吏の『遙か凍土のカナン』があるのだが、それに近いものを感じる。最後こそ尻切れトンボ感があるが、1900年代初頭にユーラシア大陸の奥地を旅する描写は非常に雄大で素晴らしいので興味を持ったらそっちも是非。

見ていると不自由で貧しい国ほど、国境管理がうるさいような感じがある。自ら豊かさを生み出すことができず、人や物の出入りから上前をはねるくらいしかできなくなれば、まぁそうなろうという感じか。そういえば日本も出国税を取る、みたいな話が出てきたなぁ……。

    

腕時計について

1年ほど機械式の腕時計を使ってみて、思うところを書いてみようと思う。

機械式時計はクォーツ式に比べて価格帯が高いものが多いので、外装もそれに応じて加工精度や仕上げの質が高かったり、凝った材料を使っていたり、というのがあるように思う。半分宝飾品のように貴金属が使われているものもあれば、強酸性の化学製品を扱うプラントに使われるような、高ニッケルステンレスが使われる場合もある。

計時精度に関しては、日用にはほぼ問題ないのと、現代はそこら中に原子時計の繋がったコンピュータが溢れているので、時計合わせには困らないなと思う。正確な時計が世の中にあふれているからこそ、手元の時計は多少大味でもOKなのではないか。

パワーリザーブは問題で、ここはほっといても電池が切れるまで動き続ける電気駆動の時計には勝てない。結局僕も時計を止めないために、1日に何分かは必ずつけるようにしている。それでも腕を運動量が小さいと朝方に力尽きている。とはいえ最近は機械式でも丸3日動くようなものもあることはある。

定期整備に金がかかるという難点は、金さえ積めば気に入ったものが使い続けられる、というメリットとも取れる。ETAの汎用ムーブメントなんて50年近く作り続けられているものもあるわけで、おそらくこの先もどこかで必ず部品が手に入り、整備ができるだろう。マニアにはバカにされることも多いが、そう考えると汎用ムーブメントも悪くないと思わないだろうか?15年近く使っているお気に入りのクォーツの時計があるのだが、故障しても修理できるのか、ぶっちゃけよく分からない。まぁ、ロレックスなんかの一流ブランドも、金さえ積めば保守してくれそうな感じではある。時計なんて使うときにほとんどエネルギーを使わないので、長く使えば使うほど環境には優しい。この点からも長く使える可能性が高いのはメリットである。保守費用については、何年かに数万円支出できるくらいは、頑張って稼ごう。

『「教養」とは何か』著:阿部謹也

『「世間」とは何か』の続編で、「対策編」の一冊。話があちこちに飛び難解で、集中して読まないと主張が分かりにくいが、本書のテーマは、「我が国で教養を身につけるにはどうしたらよいのかを考えてみた」という事だと思われる。世間と教養、関係がなさそうに見えるが、著者の考えでは関係あるのである。

「教養がある」というと、一般には本書にも書いてあるように、「多くの書物を読み、古今の文献に通じていること」とされることが多いが、本書によれば「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況」ということである。著者はこれを

  • 個人の教養:多くの書物を読み、古今の文献に通じていること
  • 集団の教養:自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況

と定義し分けている。結論から言うと、日本において身につけるべき教養とは後者の集団の教養であるとしている。著者は、人が「いかに生きるか」という問いに答えようとするときに学び、考え始めるということから出発し、教養の原型として十二世紀ドイツの思想家、サン・ヴィクトルのフーゴーに求めている。フーゴーの生きた12世紀は、「子は親の仕事を継承する」という決まり事から人々が自由になり始めた時代であり、必然的に人が「いかに生きるか」という問いに悩まされ始めた時代といえるそうだ。フーゴーの学問体系の中には学校で学ぶ自由七科(リベラルアーツ)のような所謂「学問」だけでなく肉体労働者である職人の技術のようなものも含まれていた。つまり、本来的にはホワイトカラーやインテリでなくても、教養の少なくとも一部を身につけられたという事である。そしてフーゴーの目指す理想の人間は「全世界が流謫の地である人」であり、書物ではなく実践と旅の中で博学の人となった詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハのような人であった。

日本社会において世間が立ち現れてくるのは、そこにある規範や権力階層に逆らうときである。それらから自由になって、自ら「いかに生きるか」を考えて実践しようとすると、空気のように周りにあった世間は牙を剥く。著者が文献をひもとくに、万葉集が編まれた時代から、「世間」との付き合い方に悩まされる日本人が登場する。そして著者は、「世間」に流されて生きるでもなく、それから逃げるでもなく生きていくことができる可能性を、「教養」に見いだしているといえる。上記の集団の教養を身につけることによって、自らのあり様を自分の所属する世間の外から客観的に眺める見識を持ち、その上で世間の中で世間を、煎じ詰めて人々と世間を包含するさらに大きな入れ物である社会や制度も変えていくけるのではないかと著者は言う。かつては「ままならぬもの」として逃避することしかできなかった「世間」を変えていく可能性、吉田兼好も、夏目漱石もできなかったことが、現代の我々にはできるかもしれない、と言っている。

ちょっと踏み込んだことを書くならば、本書が出版されてから20年、社会システムの底があちこちで抜けてしまい、戦後の日本が一応実現した自由や豊かさを捨て去ろうとしている現代の日本において、著者のいう教養の重要性は増していると言っていいのではなかろうか?

本書はHow to本ではない。個々人が属する世間、知識やものの見え方も異なり、時代や世界は時々刻々と変わる。具体的な指示を与えても意味がないのだろう。普遍性を持つのはこの程度の心構えであり、個別の問題に取り組むにあたっては各自が自主的に学んで、考えて、実践するしかない。結局は「自分の人生」なのだから。

『「世間」とは何か』著:阿部謹也

建前の上では、西洋流に尊厳を持つ個人が社会を構成しているという事になっているけれども、学校で他人の服装に文句を付けたり、世間に顔向けできないと生活保護を受給している人が亡くなったり、重大犯罪を起こした人の親類縁者が後ろ指を指されて自殺したりと、本音はどうも違うところにあって、「枠から外れた人」が息苦しい思いをしているのが日本社会というもののようです。そんな日本社会の持つ大いなる欠点として「自己肯定感の低さ」と「同調圧力の強さ」というものが挙げられ、後者に大きく寄与しているのが「世間」です。本ブログでも紹介したことがある鴻上尚二さんの「空気と世間」の元ネタ本ですね。

本書は「日本社会の構造を、世間の歴史的分析という観点から見直そうとする試み」であり、序論とまとめを読めば著者の主張は概ね理解できます。それ以外はその根拠として万葉和歌から慈円、吉田兼好、井原西鶴と時代を下り、最後は日本近代文学の大家、夏目漱石や永井荷風、金子光晴をひもといて、日本人の世の中の見方、特に人間関係のとらえ方を見ていくという本書の本丸が大部分を占めます。

本書において、日本人にとっての世の中が

  • 世の中
    • 社会:英語の”Society”の訳語、明治維新以後に定義され、主に学問の領域で使われる言葉
    • 世間:万葉時代から使われてきた言葉。著者によれば「自分が関わりを持つ人々の関係の世界と、今後関わりを持つ可能性がある人々の関係の世界」

といった形で表現されており、学者ですら「世間」に生きているにもかかわらず、それを学問の対象として分析しようという試みがなされていなかった、というのがモチベーションだったそうです。

日本社会の本質を探る名著といううたい文句が帯にありますが、確かに最近の乱造される新書とは比較にならない「重さ」を持った一冊でした。本書を読む上で取り上げられている作家の名前くらいは知らないと読むのがつらいでしょうし、そういう意味で義務教育+高校までの勉強も案外役に立つものだなぁと思いました。

次は本書と一続きの『「教養」とは何か』を読んでみたいと思います。

 

バカンスがしたい?なら南クロアチアはどう?

ちょっと諸事情あってこの夏は南クロアチアに行ってきたんですが、大変良かったので、小金を持っていて、「バカンス」を味わいたい諸兄に是非ともオススメしたいと思います。ヨーロッパと仕事をしていると、7〜9月にかけて連絡が取れなくなる欧州人。その間彼らが何をしているのか?その答えは一見にしかずでした。

(出典Wikipedia)

行ってきたのはこの地図で言うと下(南)にあるDubrovnik(ドゥブロヴニク)とSplit(スプリットあるいはスプリト)、あとそのちょっと南にある横長のHvar島(フヴァル)という所です。Dubrovnikはいかにもなヨーロッパ風の旧市街が有名で、Splitはローマ皇帝ディオクレティアヌスの宮殿が残っており、Hvar島はいかにもなヨーロッパ風のリゾートです。イタリア半島の踵側、アドリア海の沿岸地域ですから、要するに「紅の豚」の世界です。文化的にも中東欧というよりも南欧風とのこと(とはいえ南欧風のテキトーさは余り感じなかったので、ヘタすればイタリアよりも良いのでは?と思います。)

Dubrovnik

ドゥブロブニクはこんな感じで、適当に路地を撮るだけでも絵になります。空もいかにも地中海な高くて抜けるような青空、汗はかけどもすぐ乾いてしまうほど湿度は低く、気温も日本の夏と同じくらいか、近頃の都市部と比較すると割と低めです。クロアチアは90年台に凄惨な地域紛争を経験しており、その頃の傷跡が残っていたりしますが、主要部分は修復されておりこぎれいなもの。海も綺麗で、船着き場もこんな透明度。

Hvar島とその他の島々

Hvar島は非常にオススメ。とにかく海が綺麗で、ぜひ周辺の島々をクルーザーで巡るアクティビティに参加していただきたい。元々磯臭い臭いやらなんやらで海水浴が苦手だったんですが、ここなら泳いでも良いと思わせるだけの何かがあります。海岸も砂ではなく丸い石で覆われていて、足の裏を洗う面倒はありません。

Split


Splitは移動のために1日滞在しただけだったのでほとんど写真がなく申し訳ない。前者2つよりも人が多く、海もそこまで透明ではないんですが、こんな感じで遺跡の中に住んでいるって感じです。

要するにこういう所に座ってビールを飲んでいるだけでもバカンスであり、とにかくリゾート地に行ってやることは何でもバカンスの一種といって差し支えないでしょう。人生の楽しみはここにあり、こんな所でリフレッシュできればさぞかし仕事も捗るでしょう。できるもんなら毎年やりたいですねぇ……。

カスタムキャスト楽しい!

ネットで流行っているカスタムキャストを触ってみました。

こんな感じのロリキャラっぽいキャラや、

個人的に直球ど真ん中ストライクなお姉さんキャラを作ったりして遊んでいます。アイドル風のひらひらした衣装が苦手なんで、ゴリゴリのキャラを作れない……。あとチョーカーは性癖です(10年以上大槍葦人さんのファンでな……。)

作りながら思ったんですが、いわゆるバ美肉(バーチャル美少女として受肉)したいキャラを作っているのか、頭の中の薄い本に出てくるヒロインを作っているのか、分からないんですよね。来世は美少女なんて言っていますが、実は男の自分に割と満足しているのかもしれない、と思ったりしました。

(追記)自分は来世女性に生まれ変わる予定なんですが(真剣)、来世の自分を想像しながらモデルを作ったらこんな感じになりました。生まれ変わったらよろしくお願いします。

カスタムメイド3Dとか、えっちなMMDモデルを作ったりする人の気持ちがちょっと分かりました。とりあえずスマホがあればできるので、興味がある方はお気軽にどうぞ(類似した偽物アプリがあるそうなので、注意して下さい)。

『セックスボランティア』著:河合香織

性というのは非常に複雑で繊細なものであって、コミュニケーション、承認、性欲の充足、排泄欲求のようなものなど、各個人にとっても、社会的にも、複数の意味が重なり合っている。障碍者にだって、人間である以上性欲がある。そんな当たり前だがデリケートな問題を、誠実に綴ったルポルタージュ。

日本だと、養護学校の性教育に対して国会議員が文句をつけたり(そもそも健常者に対してもきちんとした性教育が行われているのかという問題もあるけど)、特に障碍者の性というのはタブーになっているところがある。本書では、売春を利用したり、恋人や配偶者がいたり、いわゆるセフレがいたり、色々な形で性と向き合っている障碍者が出てくる。取り上げられている事例は日本とオランダで、オランダというと公娼制度があったり、ソフトドラッグが合法的に利用できたりとオープンで開明的なイメージがあり、障碍者の射精の介助をしてくれるセックスボランティアの制度も実際にあるそうだ。しかし、本書によるとオランダにおいても、支援する人たちも支援される人たちも、やはり悩みながら向き合っており、性というのはどこまでいっても正解のない世界なんだと思わされる。

今現在健常で、かつ障碍者と日常接することがなくても、自分や家族や親しい友人が、明日交通事故で障碍者になるかもしれない、生まれてくる自分の子どもに障碍があるかもしれない。結局自分のことにならないと本当のところは分からないものだとは思うが、それでも本書は、なかなか見えないけれど、確かにそこにあるものに対する想像力を喚起してくれる。

『女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと』著:西原理恵子

こう言っちゃなんですが、西原理恵子の「この世で一番大事なカネの話」は非常に影響を受けた一冊で、個人的には何度読み返しても含蓄のある本だと思っています。元々出ていた理論社が倒産しちゃって入手困難になっていたんですが、角川で復刊しましたので是非どうぞ。本書は主に「女性」にフォーカスして自身の経験から来る人生訓を語っている本です。基本的に女性に対して「(主に経済的な)自立」と「自由」を説きます。

本書では行けるところまで学歴をつけろ、資格を取れ、王子様を待つな、パートナーを憎むくらいなら逃げろ、と口を酸っぱくして言います。経済的に自立できない健常者の男性が他人に救済される可能性はまぁないんですが、女性はパートナーの成功に相乗りすることがままある代わりに、自由や自立を実現するための努力を親や周りから許されない場合もあるわけで、だからこそ西原氏はこういう本を書くわけですよね。

私も、(社会的な自立が可能な)娘がいたらこの本を読ませたいと思います。自由は残酷ですけど、それでも人生を人任せにするよりも、自分の足で歩いて行って欲しいと思うからです。というわけで、女性には特にオススメ、男性にも意外とオススメです。