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『映像の世紀』

『映像の世紀』、NHKの名作ドキュメンタリーですが、公共放送の作品の割にDVDの価格が非常に高価でして、なかなか手が出ない作品です。とはいえ、たいていの公立図書館には所蔵されていますので、借りて見ればお金はかかりません。最近の図書館はパソコン上から予約すれば他館から取り寄せてくれたりするので、もう図書館で借りて見れば良いんじゃないかと。

ということで、第2集「大量殺戮の完成」、第4集「ヒトラーの野望」、第11集「JAPAN」(タイトルが、格好つけてて大変素敵です。)を見たわけですが、20年前に見たときよりも色々理解が進んで楽しいですね。よくもまぁこんな映像が残っているもんだというような映像がてんこ盛りです。

特に第一次世界大戦を取り扱った第2集を見ると、戦争に科学技術が積極導入されて、物質の消費量と、何より死者数がうなぎ登りになっていく様子が映像でよく分かります。大砲による制圧+騎兵、歩兵突撃 → 機関砲斉射による歩兵、騎兵の掃討 → 塹壕戦 → 戦車による塹壕突破、空爆、毒ガス、潜水艦による通商破壊という戦法の変化がたかだか4年で起こってしまいます。これにコンピュータや人工衛星、精密誘導兵器、核兵器、航空母艦くらいが出てくればほぼ現代の戦争が完成するんじゃないかと思うくらいです。かつてはこの恐ろしさが分かりませんでしたが、改めてみると恐ろしい話です。

反面、今の社会につながる事象も起こってるんですよね。

– 女性の社会進出
– 腕時計の一般化による時間感覚の変容
– 大量生産技術の広範な普及
– 貴族階級のさらなる衰退

などでしょうか?本当に現代がなぜこんな風になっているのかを理解するためには、過去を理解せんとだめなのだなぁと思っております。近頃本当に、歴史の勉強が楽しいですね。

『大いなる沈黙へ』 監督:フィリップ・グレーニング

普通の日本人にとって、「祈る」というのはせいぜい自分のための現世利益を神に祈るくらいしかないような気がします。少なくとも筆者はそうです。しかし、世の中には、「祈る」ということを人生の中心に置いて生きる人々がいて、そういった人たちがいろいろな宗教に存在するらしいです。

本作は、キリスト教の修道院、その中でもとりわけ厳しいルールに則って運営されているグランド・シャルトリューズ修道院という修道院を被写体としたドキュメンタリー映画です。監督が1984年に企画を思いついて、修道院に依頼をしたら、15年たって初めてOKが出たそうです。監督一人で20キロの機材を背負ってアルプスの山奥の修道院に赴き、そこで実際に修道士と同じ生活を送りながら撮影した、魂のこもった一作です。ちなみにこの修道院、聞いたことがある方もいると思いますが、リキュールにその名を残す修道院でもあります。

本修道院は沈黙の修道院と呼ばれることがあるらしく、そこで暮らす修道士は、1週間に4時間のレクリエーションの時間を除けば、個室にこもってひたすら聖書を読み、祈る、という生活を送ります。3時間以上まとめて眠ることはなく、自給自足の修道院を維持するための肉体労働や修道院全体での祈りの時間など、1日の生活は厳格なマニュアルに従って行われます。日々、電波なり何なりを使って、濃厚に他人とコミュニケーションを取っている現代人の生活とは真逆と言っていいでしょう。

全編通してサウンドはほぼ環境音しかなく、同じようで違う生活のシーンが淡々と繰り返されます。季節や冬、早春、夏と移り変わっていきますが、そういった自然の変化以外には大きな変化はなく、いうなればヤマもオチもない映像が続きます。実際には2年くらいの撮影期間があったらしいのですが、変化がないのが逆にすごい。あぁ、こうして云百年なのねと。こう言うと怒られそうですが、退屈で、眠たくなる映像でもありますが…。

時々、修道士を正面から撮った、自己紹介的なカットが挟まれるのですが、それを見ていると、次のシーンで、「あ、さっきのおじさんだ!」みたいになり、自分が徐々に修道院になじんでいくような錯覚を覚えます。同じカットが繰り返され、そこで修道士が水をくんだりするため、「あ、そこに水道があるんだよな!」とか徐々に場所を覚えていくのもその効果を補います。本作を表する言葉の一つ「映像が修道院そのものになった。」というのはこのことなのかもしれないなと。

単館系の映画館で現在公開中ですので、興味を持たれた方はお早めに。
公式サイト