『帰ってきたヒトラー』 著:ティムール・ヴェルメシュ 訳:森内薫

1945年の防空壕内からなぜか2011年に復活したヒトラーが、コメディアンを経て政治家の道を再び歩き始めるまでを描いた小説。人類史に残る悪人と一般に認識されるヒトラーが、意外に魅力的な人物として描かれている。ヒトラーが1世紀近く前と変わらない主張しているのを、周囲が勝手に誤解して人々の支持を集めていく様は、末恐ろしいとみるべきだろう。彼の中身が全く変わっていないし、人の言うことを全く聞かないという面を描くために、本作の一人称文体は最適であると思う。あと訳も軽妙でうまい。多分1920年代の当時も、彼がこういうプロセスでドイツ人に支持されていったのであろうという追体験ができる気がする。

ちなみに、本作のヒトラー像は私の勝手なイメージに近い。なんとも表現しづらいのだが、私はヒトラーには少なくとも、「ドイツ国、あるいはドイツ民族に対する」ある種の愛情はあったのだろうと思っている。ただ、自分ならば(というよりも自分だけが)ドイツ国とドイツ国民を救済できるという強烈な思い込みと、自分が良いと思う人々以外の人々(ユダヤ人や共産主義者)に対する偏見、扱いが極端に悪く(程度は全く違うがこの傾向って、現代のリベラルや良識派と言われる人たちにも見られる性向であるなと思う。)、それが彼が為した人類史に残る悪行の原因となったのだろうと思っている。『イェルサレムのアイヒマン』でアーレントが最後に、アイヒマンが死刑に値することを述べた唯一の理由、「この世に誰が存在して良くて、誰が存在してはならないかを、他ならぬ自分が決めることができると思っていること」に照らして考えると、やはり彼と同じ天を戴くことのできぬ……もとい権力を持たず、飲み屋で管でも巻いているくらいで済んで欲しい人物であると思う。結局、個人的な好き嫌いはその人の勝手で、その人がだれに手をさしのべるのかはその人が決めればいいと思うが、その好き嫌いを社会の制度や法律として整備して権力を与えてはいかんのだろうな。まして暴力で命を奪うなどもってのほかというか。

本作は幸いにしてフィクションでコメディーであり、時々クスッと笑いが漏れるようなもの(最初の方の「電撃クリーニングサービスだ!」には笑った。とはいえ、ヒトラーの主張が現代のドイツ人に受ける理由はイマイチピンとこなかった。)だが、上記のように色々と考えさせられる作品である。さて、自分が不満に思っている社会問題に解決策を与えてくれるかのような演説をする、話のうまい政治家(実は偏見に凝り固まった稀代の狂人)が出てきたとして、自分は冷静にそれを見抜く目を持てるのだろうか?

ゲーリング、ボルマン、ヘス、グデーリアンにフォン・シュタウフェンベルグと、当時のヒトラー周辺の人々の名前がぽんぽん出てくるので、知らない人はWikipediaなどであらかじめ勉強しておくと面白いかもしれない。『ヒトラー 最後の12日間』あたりもビジュアルイメージを固めるのにはいいのではないか。もちろん本作を原作とする映画も。まだ見ていないが、一応見に行くつもり。

 

 

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